政策提言

気候変動と紛争 (政策提言 No.56)

2019年10月24日配信

「我々あり、ゆえに我々生きる」という太平洋地域の
エコリレーショナルな精神性と気候変動のストーリーの転換

ウポル・ルマ・バアイ

 本稿(Upolu Lumā Vaai著)は戸田記念国際平和研究所の政策提言No.56「『我々あり、ゆえに我々生きる』という太平洋地域のエコリレーショナルな精神性と気候変動のストーリーの転換(“We Are Therefore We Live” Pacific Eco-Relational Spirituality and Changing the Climate Change Story)」(2019年10月)に基づくものである。

 太平洋地域の住民は数世紀にわたり、気候をめぐる危機を精神的・文化的世界の中で乗り越えて生き残り、対応し、今もそれを続けている。国際社会の大部分が科学から情報を得て気候問題と取り組む各自の役目を務める一方、地域社会の多くでは、文化的・精神的な信念と慣習が不可欠な役割を果たすことも認識されている。本稿では、太平洋地域に住む多くの人々が、何世紀もの間、気候に対応するための指針としてきた「エコリレーショナルな精神性(eco-relational spirituality)」(自然との関係性に基づく精神性)の「我々あり、ゆえに我々生きる(we are, therefore we live)」という中心概念を取り上げる。

 気候変動は太平洋地域住民の生活、安全保障、幸福度(ウェルビーイング)にとっての最大の脅威である。予測不能な気候による影響や災害リスクは、地域社会の構成、食料安全保障、紛争、強制移住に対して深刻な影響を与える恐れがある。一方、そのようなリスクは、改めて太平洋地域を戦略的な重要性を持つ場所として位置づける、昔の植民地時代風の“パシフィック・ラッシュ”(太平洋への殺到)というナラティブの復活にも寄与した。

 太平洋諸島フォーラムは2017年以来、小さな島嶼社会における資源の集団的な保護・管理を支援するために、ブルーパシフィック・アイデンティティーという枠組みを作り上げてきた。この枠組みは、太平洋地域が巨大な財源に支配されるというナラティブから離れ、独自の道を歩めるようにすることを目的としている。その「共同管理」と未来性の確保は、太平洋地域住民が知識を得る方法、生きる方法を包括的にとらえ、気候変動と紛争に関する議論を含めた開発戦略と一本化したときに、初めて信頼に足るものになる。

 教会は常に、精神性を通じてレジリエンスを強化するための最前線に立ってきた。政府が参加する以前の1970年代以来、宗教的信念、特に太平洋地域の教会は、包括的な幸福度というビジョンに対して精神性と先住民社会を基盤とする知識が持つ重要性に注目し、先住民と背景状況を取り入れたこの地域固有の神学を生むだけでなく、自然環境を破壊するグローバルな植民地支配体制とネオリベラルな開発規範に挑戦する役割も果たしてきた。

 太平洋の教会の指導者らは、健全な結びつきの流れと深い関係性を通じてのみ自らを持続できる“生きて関係し合う家”として世界を見る――こうした相互のつながりと“リレーショナリティー”(関係性)という視点を導入した。これは神にもあてはまる。神はもはや神聖な力を維持するために遠くから世界を支配する遠隔の地の君主的な存在ではなく、聖霊を通じて多数の関係性の一部となり、聖霊を通じて悲嘆に暮れる家族と共に苦しむ同伴者である。これはこのエコリレーショナルな家の調和の乱れが、神の存在そのものの乱れでもあることを意味する。

 現在優勢な気候変動に関する論議が抱える問題点は、しばしば精神性を無視し、「所有中心(we have)」の考え方を助長する、世俗的な人間中心の科学的アジェンダにより進められるという点である。気候変動に対する世俗的アプローチの問題点は、物事を個別に理解する部門分けと分断化という考え方に基づき進められるという点である。そのため、例えば“エコロジー”は物質的な自然環境のみを指すために使われる。分断化は、人的なものはエコロジカルではないが、エコロジカルなものすべては人に属するという見方につながる。その土台になるのは、人的でないものに対する無制限の支配を仮定するという人間の傲慢さである。その影響はとてつもなく大きい。

 第1に、エコロジーに関するこの分断化されたナラティブは、太平洋地域では異質な概念である。しばしば“気候の専門家”と呼ばれる国際コンサルタントと現地のコンサルタントの両者が、安価で自由に、地域社会がいつでも利用できる、順応性がありレジリエントな現地の戦略を応用するのではなく、高価で持続性に乏しく、最初に考案された状況でのみ機能する、異質なエコロジー戦略を押し付ける。地域の話し言葉ではなく、ハイレベルな国際的気候用語を使う、この現在優勢な開発アプローチは、例えば1970年代以来、太平洋地域の多くの政治家、学者、教会が異議を唱えてきた植民地主義的な“依存症候群”の中で育まれた、破壊的な人種差別と“現地社会は無知”という姿勢を助長する。

 第2に、分断化されたナラティブでは、強制移住と再植民が現地社会の先住民の知識に与える影響を看取できない。土地を失うことは、文化、言語、地域社会固有の知識の喪失に対して直接的な影響力を持つ。グローバル・ノース(北の先進国)で概念化されたほとんどの主流開発モデルでは、太平洋地域社会の文化と精神性は無視されている。

 第3に、ほとんどの気候議論において盛んに使われる“脆弱な太平洋地域”“沈みゆく島々”“溺れる人々”という言い回しでは、資金協力の必要性なしに危機と取り組む現地の島民がすでに行っているレジリエンス強化策を認識できず、「被害者的アプローチ」に正当性を与えている。これは資本または個人的な儲けのために太平洋地域を搾取する、富める提供者や強力な組織がパワーを手中にするというリスクを生む。

 第4に、「エコロジー」は自然環境と同義語だという思い込みが私たちの中に抜き難く組み込まれている。この資源採取的な“増えるほど良い”という考え方の文脈では、人は互いの関係性によって結びつくのではなく、他人や他の地域社会が持つ限られた目に見える資源をめぐる競争によって結びつく。これは恐怖と絶望、精神生活の枯渇を生む。幸福度(ウェルビーイング)という概念でさえ、地域社会の安全ではなく、お金と競争により測られるが、精神的安心感なしには安全は得られない。

 そして最後に、気候危機に関する議論に強く影響するのが、エコロジー(ecology)、エコノミー(economy)、エクメーネ(oikoumene=人が居住する場所の意)というオイコス(oikos)の三つ子である。古代ギリシャ語で「家」を意味するオイコスという概念をルーツとするこれらの言葉は、元来、つながりを持つはずのものであった。しかし、それぞれが相互のつながりを、エコロジーは科学研究の帝国により、エコノミーは資本主義の帝国により、エクメーネはキリスト教により、剥ぎ取られ、盗まれてしまった。この急激な分断の結果として、エコロジーなきエコノミーは攻撃的に資本主義化し、エコロジーなきエクメーネは荒々しく人間中心になり、エクメーネなきエコノミーは冷酷に世俗化した。

 太平洋地域では、“万人にとっての満ち足りた人生”を達成するために、精神性が鍵を握る。それにもかかわらず、気候変動などの我々が直面する問題そのものが、命を肯定する精神性からの切り離しを原因として制御不能なまでに急速に悪化した。リレーショナリティー(関係性)は包括的な精神性の達成にとって非常に重要である。一人が苦しめば、万人が苦しむ。

 エコリレーショナルな精神性では、「所有中心(we have)」よりも「存在中心(we are)」という考え方を称揚する。それは目に見える関係性を受け入れ尊重するが、最も重要な点として、ごく少数を例にあげても、空気、先祖、人の目には触れない海の中の領域など、人知には見えないものも受け入れ、尊重する。エコリレーショナルな精神性の意識とは、知るものがすべてではないと“実感”することである。目に見えるものと見えないものすべてについて、ポリネシア人が「ヴァ」(va=関係する空間)と呼んだものを認め、尊重することによってのみ、世界を癒すために効果的に対応することができる。「所有中心」という考え方は地球の限られた資源をめぐる所有権と競争を助長する。「存在中心」とは、地球が我々を「所有」しているのであって、その逆ではないことを意味し、富の平等な分かち合いと配分を奨励し、“増えるほど良い”という規範に見られる強欲と利己主義に異議を唱える。“減るのに増える”というリレーショナルな開発規範では、所有する量の減少が損失を意味しない。むしろ、個人の満ち足りた人生は全体の幸福の中でのみ達成される。太平洋地域住民はエコリレーションシップを十分に認識して育ってきた。彼らはエコリレーションシップという観点から思考し、エコリレーションシップに照らして物事を進める。

 エコリレーショナルな精神性では、人生のすべてが多面的であり、それぞれ区別でき、異なるが、しかし相互に、緊密に関係していることを理解する。ヴァヌア(vanua)、フェヌア(fenua)、ファヌア(fanua)、アバ(aba)などの太平洋地域先住民の言葉は、土地と人の両方を含蓄する二重の意味を持つ。従って、フィジーで「タマタ・ニ・ヴァヌア、ヴァヌア・ニ・タマタ(tamata ni vanua, vanua ni tamata)」と言えば、それは“人は土地、土地は人”を意味し、それらが孤立して存在することはできず、他方の中においてのみ意味を見いだすことができるという点を強調している。

 長年、太平洋地域の多くの島民は、命を肯定する価値体系を通じ、このような調和とバランスの取れた状態を維持してきた。たとえばフィジーでは、「サウトゥ(sautu)」とは、すべての人の“健康と幸福度”を通じてのみ人生を成就できることを意味する。マオヒの人々にとり、「オプ(ôpü)」という概念は、命、思考、思想、知恵の中心であり、陸海空の相互関係の中に体現され、幸福度の総体の構成と達成の根本である。サモア、トンガ、マオリで、「ヴァ(va)」または「ワ(wa)」というものについて語るとき、それは関係し合う空間の尊重を通じ、地域社会の協力を通じてのみ達成可能な安心感および調和とバランスを概括する規範であって、過去に起きた気候危機の際には常に効果を発揮した「我々あり、ゆえに我々生きる」というアプローチである。

 この観点からは、エコロジーは命のすべての側面に織り込まれた全体である。我々が同じ地面、水、空気を共有するだけでなく、我々は同じ物質から作られているという意味で、地球は我々の間の深いつながりを想起させてくれる。たとえばサモアでは、土壌を表す言葉「エレーレ(eleele)」は、人の血液を表す言葉と同じである。母の子宮内で出生前の赤ん坊を支える胎盤を表す言葉「ファヌア(fanua)」は、土地とコミュニティーを表す言葉と同じである。岩や石を表す言葉「ファトゥ(fatu)」は、人の心臓を表す言葉と同じである。言い換えれば、我々人間は頭から爪先までエコロジカルなのである。

 今日、我々は気候変動という人類史上最大の危機を生き抜こうとしている。先住民が気候変動に対する解決策の鍵を握っていると、多くの人が主張してきた。これは真実であるが、ここで問題なのは、先住民と信仰の精神性が、気候変動の政治をコントロールする“経済の支配者”の世界にいかに踏み込むかである。気候問題と効果的に取り組むには、気候変動のストーリーを構成し直すために、このエコリレーショナルな精神性に関する提言を必要とする。

 その第1が、精神性を中心に据えることである。そうした変化の礎石となる確固とした精神性が存在するときに、人間性の変化が可能である。エコリレーショナリティーには、フランシスコ・ローマ教皇が人生の「急速化」(rapidification)と呼ぶものをスローダウンさせる能力がある。物事が急速化されると、普通は関係性、特に人の知識からは感知できない関係性は見落とされる。エコリレーショナルな精神性は人生をスローダウンさせ、あらゆる人が愛と気遣いの価値を尊重し、受け入れるようにするという意味で、修復と回復の能力がある。

 第2は包括的な視点である。エコリレーショナルな精神性は、気候変動に対して“どちらも/および”というアプローチを取り入れ、適応のために、または気候関係の戦略で、精神と物質の両方、神と世界の両方、人間と地球の両方を受け入れるものとする。また、個人だけでなく全体の幸福度に重点を置く“減るのに増える”という経済的規範を推進する。政策決定者は気候変動に関する決定を下すにあたり、目に見えない非物理的な側面を認識し、物質主義的な競争を超え、持続可能な開発モデルと気候変動に関するアプローチの基盤となる別の包括的な哲学を発見すべきである。

 第3に、あらゆるものがエコリレーショナルであるという認識である。気候変動には多面的、多層的で、相互に関連し合う、思い切ったアプローチが必要である。たとえば教育制度では、独立した知識としてのエコロジー教育ではなく、ほぼあらゆる学術分野に触れる形でのエコロジー教育を強化すべきである。

 第4に、神学を脱植民地化し、神を天上から降ろすことである。離れたところにいて、強大な力を持ち、全能の、怒りに満ちた神が遠くから審判を下すという、問題のある神学は、自らは何もできず、援助を必要とし、神に命じられるまでは動くことさえできない世界を作ってしまう。このナラティブは、一部の教会の気候に関する神学においては、いまだに勢いを失っていない。希望のためには、神が「地に足がついた」、多数のエコリレーションシップの苦悩に寄り添って同苦する存在になることを可能にすべきである。

 第5に、地域社会の協力を真剣に受け止め、包括的にゼロから築き上げる気候変動に対するアプローチである。エコリレーショナルな精神性の本質は、互いに依存し合うことにほかならない。たとえば多くの太平洋地域社会で、地域社会が自然災害から完全に回復するには、さまざまな集団がそれぞれの役割を務める必要がある。「我々あり、ゆえに我々生きる」というエコリレーショナルな精神性は、生き残りのための単なる指導原則ではない。それは“タガタ・パシフィカ(tagata Pasefika)”(太平洋の人々)として生きることに不可欠な要素である。

 気候変動があらゆることに対して破壊的であることは周知の事実である。それほど知られていないのは、現在の一方的な気候ストーリーの方が、それよりもさらに破壊的であるという点である。気候変動のストーリーを変えようとするなら、多様であって、しかも切り離せない全体の調和を優先し、政治と経済の巨人により敷かれた支配的な道から逃れる、包括的な対応が必要である。おそらく現在必要とされるのは、このエコリレーショナルな精神性が、政策決定と開発モデルの創出に生かされる方法を見つけることである。

 本稿は、戸田記念国際平和研究所の英文ウェブサイト上に引用文献も含めて掲載した政策提言No.56の要約版である。

ウポル・ルマ・バアイは、気候変動による異常気象にたびたび見舞われるサモア独立国サバイイ島で成長し、人生の大半をそこで送った。現在、太平洋教会の地域統一機関であるフィジー共和国スバの太平洋神学大学(PTC)学長。神学者および太平洋先住民哲学者として、PTCの神学・倫理学部長を務める。太平洋のリレーショナリティー、エコリレーショナル神学、リレーショナル聖書解釈学に関する論文・著書がある国際的に著名な学者であり、植民地主義的な主流開発ナラティブに代わるホリスティックなナラティブを提供する、太平洋のリレーショナル哲学および知識を得る方法、生きる方法を復活させる太平洋「リレーショナル・ルネサンス・シリーズ」の編集主幹。オックスフォード大学オックスフォード・メソジスト神学研究所オセアニア・チェアー(Oceania chair of the Oxford Institute of Methodist Theological Studies)、太平洋哲学会議シリーズの座長・主催者。国連薬物・犯罪事務所(UNODC)法教育(E4J)専門家委員会委員、G20異宗教間サミット太平洋コーディネーター。世界教会協議会(WCC)は最近、グローバルな教会が気候変動と生態系破壊という問題と効果的に取り組むための今後の方向性として、エコリレーショナル神学に関する彼の率先的活動を公式に承認した。現在、2冊の書籍の共編作業を進めている:「Indigenous Relational Philosophies of Oceania: Rewriting the Story of Development through Oceanic Wisdom」(2020)、「Methodist Revolutions: Evangelical Engagements of Church and World」(2020)。また、自著「Eco-Relational Theology: A New Story for the Earth from an Oceanic Perspective」(2021)を執筆中である。