政策提言

(政策提言 No.102)

2021年02月02日配信

「なぜ私たちが違法なのでしょうか?」 民主国家インドにおける市民権問題解消の手段としての異議表明

ラメッシュ・タクール

 本稿(Ramesh Thakur著)は戸田記念国際平和研究所の政策提言No.102「『なぜ私たちが違法なのでしょうか?』」民主国家インドにおける市民権問題解消の手段としての異議表明 (“They Called Us Illegal. How Is It Possible?” Dissent As A Tool For Navigating Citizenship in Democratic India)」(2021年2月)に基づくものである。

 2019~20年にインドで発生した抗議運動は、世界のどこであれ自由民主主義の理論と実践の歴史において特異なものである。本政策提言では、法律と正当性の区別という観点から政治的服従の根拠について検討し、2014~19年に見られたヒンドゥー至上主義の主張について概略を説明したうえで、2019年と2020年に起きた重大事件を考察する。

 法律と正当性の区別は、政治的服従と不服従に関するよく知られた言説と重なる部分がある。服従しない義務も、これに含まれる。「市民的抵抗」には、相手に身体的危害や損害を負わせることなく、政策や行政機関に対する反対を表明する行進、デモ、ボイコット、ストライキ、集団的非協力が含まれる。

 市民的不服従は、独立後のインドが英国統治時代から引き継いだ政治的遺産のひとつだった。マハトマ・ガンジーの「サティヤーグラハ(対抗者に対する真実の主張)」という考え方は、道徳的な説得力に深く根差している。サティヤーグラハには、信用を失い軽蔑されている政府の命令に服従することを拒む犠牲、勇気、堅固さが必要である。抵抗者は、投獄を含む法的結果を受け入れる覚悟をしなければならない。

 政治的デモは興味深いインド的な政治参加の様式であり、ストライキ、刑務所を意図的に満杯にする、道路や鉄道の封鎖、国民巡礼、断食、抗議退出、黒旗デモなど、非常に多様な非暴力的抗議が用いられてきた。抗議運動は、個人やグループが政府の政策に異を唱え、正義を回復するよう政府に圧力をかけることを可能にしてきた。

 監獄は、意図的かつ組織的に収監されるという方法で、インド独立を目指す闘いの一環として頻繁に利用された。インドにおいて、政治的デモとして投獄されることは正当性があり、いかなるインド政府も有効な対策を講じることができずにいる。過去数年だけでも、何百人、何千人ものインド国民が自ら逮捕され、「jail bharo(ジェイル・バロー: 刑務所を満杯にする)」や「jail bharo andolan(ジェイル・バロー・アンドーラン: 刑務所を満杯にする運動/扇動」)を実行した。

 2019~20年の社会動乱と政治的混乱は、第1期モディ政権(2014~19年)の背景抜きに理解することはできない。この時期、モディ首相が掲げた開発とグッドガバナンスというアジェンダは、突如沸き起こった熱狂的なヒンドゥー至上主義の下でひっくり返された。ヒンドゥー至上主義の裏返しとして、ムスリムは、総勢2億人近い人口があるにもかかわらず、疎外された。

 偏狭なヒンドゥー教徒によるインド人ムスリムの「他者化」は、インドに対する彼らの忠義と忠誠を疑問視し、彼らをパキスタン・イスラム共和国に忠実な第五列(味方に紛れ込んだスパイ)として描写することに依拠している。根底にあるそのような疑いをモディとインド人民党(BJP)は政治利用し、ムスリムを着実に周縁化する社会的アジェンダを推し進めた。また、ヒンドゥー教徒は、より恵まれた立場を獲得した。宗教的少数派、特にムスリムが、多方面からの攻撃にさらされて追い詰められた心理に陥っていくなか、評論家らは2015年にはすでに、モディはインドをヒンドゥー版パキスタン(Hindu Pakistan)に変えてしまうリスクを冒していると警告し始めていた。

 2019年5月、モディが前回を上回る過半数票を獲得して再選されたことにより、パキスタン・イスラム共和国に対するインド・ヒンドゥー共和国を構築しようとするプロジェクトに、新たなエネルギーが吹き込まれたようである。

 7月、再選政権は電光石火でトリプル・タラークを違法化した。これは、ムスリムがタラーク(離婚)という言葉を3回唱えるだけで妻と離婚することができるという慣習である。8月には、インド唯一のムスリム多数派州としてカシミールの自治権を保証する憲法第370条を廃止した。11月、ウッタルプラデーシュ州はヒンドゥー教徒の女性がムスリム男性と結婚するためにイスラム教に改宗することを法律により禁止し、BJPが支配するいくつかの州も後に続いた。

 また、ヒンドゥー至上主義者たちは、1,200年にわたるムスリム支配(ムガル帝国がその最後)とキリスト教支配(大英帝国の一部として)の間に、国家権力によってヒンドゥー教徒がキリスト教とイスラム教に改宗させられたという理由で、ghar wapsi(ガル・ワプシ:帰郷)の象徴としてクリスチャンとムスリムの再改宗を目指している。

 2019年12月、政府は市民権改正法(CAA)を可決させた。これにより、バングラデシュ、パキスタン、アフガニスタン出身の非ムスリムの少数者は、インドの市民権を優先的に取得できるようになった。このような法律の狙いは、インド国内のムスリムを二流市民におとしめることである。

 ムスリムに対する偏見を振りかざす行政当局は、インドで出生した人々でさえ、市民権を証明する書類を(インド国民の大多数と同様)提出できないという理由で、公民権を剥奪して収容所に収容するべきだと宣言する権限も獲得した。

 インドの最高裁判所がCAAを違憲とする判決を出すかもしれないが、それまでの間、インド国民であることを証明できない人々は無国籍となるが、国外退去させることもできない状態となる。最終的に彼らは収容センターに入れられ、物資供給、財務、法律、倫理上の懸念がいっそう拡大するだろう。

 いずれもアッサム州生まれのモハマド・ヌル・フセイン(34歳)、妻サヘラ・ベグン(26歳)、幼い2人の子どもたちのケースは、この危険性をよく表している。彼らは、2019年6月に逮捕され、子どもたちとともに収容センターに入れられた。人権派弁護士が彼らのケースを取り上げ、ついに2020年12月16日、彼らの市民権が確認された。「私たちは違法だと言われました。どうして、そんなことになるのですか?」と、彼らは問うた。

 インドの学生たちはCAAに憲法的良心の呵責を感じ、通りにあふれ出て抗議活動を行った。多くのインド人が、基本的価値を守ろうとするこの自然発生的な市民関与のうねりを心強く感じ、ムスリムたちは大衆の連帯を目の当たりにして勇気づけられた。学生たちは国家による激しい弾圧を受け、警察による暴行の動画は国中のインド人に衝撃を与え、奮い立たせた。

 デリーのシャヒーン・バーグ地区で抗議の座り込みを行っていた女性たちは、独立の歌や国歌を歌いながら2020年の元旦を迎えた。この抗議運動は、過去数十年で最大の規模となり、これまでで最も顕著な反モディ政権の大衆動員であったが、結局、コロナ禍におけるソーシャルディスタンスの義務化によって終了した。

 共和国記念日の1月26日、ムスリムの大学生たちが公共の場で、全てのインド人の自由、平等、正義、博愛、そして全ての信仰の尊重を謳う憲法前文を、ヒンディー語、英語、ウルドゥー語(インドのムスリムが使用する言語)で朗読した後、国旗を掲揚し、国家を歌った。ヒジャブを着て三色旗をまとった若いムスリム女性たちが、要求を表明し、インド国民としての権利を守り、しかしムスリムとしてのアイデンティティーを犠牲にはしないという主張を行った。

 シャヒーン・バーグの抗議は、民主主義、市民権、憲法に基づく統治、少数派の権利が、ひとつの強力な国民的アイデンティティーとして形成されるきっかけとなった。女性たちは、憲法に体現されたリベラルで、多元的で、寛容で、包摂的なインドという概念を再構築したのである。

 非暴力による市民的不服従という戦略の正当性の源泉は、元来、愛国主義的なものにあり、自由なインドにおける完全な市民権を獲得しようという運動と不可分に結びついている。従って、いかなるインド政府も、平和的な大衆動員による異議表明を踏みにじり、違法化することはできないのである。抗議や市民的不服従は、新しい、より良い、より明るいインドを目指すコミュニティーの集団的希求を力強く象徴するものである。

 抗議者たちによって、愛国主義は宗教やカーストに基づく党派的アイデンティティーから切り離され、憲法の中に改めて位置づけられた。抗議運動は、インド憲法の本質と意味、市民や少数派グループに与えられた権利や保護に関する持続的な議論を引き起こした。その意味で、抗議運動は、自由民主主義国家における市民権について大衆に市民教育を行う強力かつ有効な手段となった。そこには、抗議運動に国旗、国歌、憲法をまとわせるというガンジーのような政治的才覚がある。

 市民権改正法と国民登録簿(CAA-NRC)の問題は、国内および在外インド人に亀裂を生み、社会的結束、政治的安定、景気回復を損なうことによって国家分断のリスクをもたらし、外交資本を失わせるおそれがある。2014年にモディが当選した後の震えんばかりの興奮と、今日の彼の独裁的資質について高まる懸念の間には、これ以上ないほど明白な落差がある。インドの世界的影響力は、21世紀に入って急速に拡大した。その背景には、目覚ましい経済成長、生き生きとした多元的民主主義に対する遅まきながらの認識、インドのムスリムが共和国の非宗教的な民主主義にまく融合し、イスラム教過激主義がアフガニスタンとパキスタンから南東に広がるのを防ぐ有効な防波堤となっているという評価、在外インド人がいくつかの主要国において影響力を徐々に強めるロビーとして浮上していることがある。

 母親がインド人のカマラ・ハリス米副大統領は、モディ政権下のインドが人権基準から逸脱していることに対して批判的である。波紋は欧州と英国にも広がっている。国際投資家の信頼は、宗教的緊張の激化によって大きな打撃を受けている。

 苦心して築き上げてきたインドへの信用、尊敬、称賛が完全に消えてなくなる前に、モディは早急に、国内の政治的和解と経済活力を促進する有効な体制を取り戻さなければならない。法律とは恣意的で、不公平で、押しつけがましく、国民を子ども扱いするものだと考える人々が決定的大多数に到達すれば、彼らは法律に従わなくなるだろう。彼ら全員を訴追し、有罪にし、罰しない限り(大勢の人々に対して行うのは不可能であるが)、それは法の支配そのものを揺るがすことになる。

 モディは、党派的分極化から脱却し、憎悪を撒き散らすヒンドゥー至上主義の群衆を抑え、インクルーシブ(包摂)を実践するとともにそれを人々に説き勧めなければならない。

本稿は、戸田記念国際平和研究所の英文ウェブサイト上に引用文献も含めて掲載した政策提言No.102の要約版である。

ラメッシュ・タクールは、国連事務次長補を務め、現在は、オーストラリア国立大学名誉教授、戸田記念国際平和研究所上級研究員、オーストラリア国際問題研究所研究員を務める。最近の編著書に「The nuclear ban treaty: a transformational reframing of the global nuclear order」がある。