政策提言

協調的安全保障、軍備管理と軍縮 (政策提言 No.90)

2020年09月09日配信

南アジアの戦略的安定性実現の複雑さ:インドの視点

マンプリート・セティ博士

 本稿(Manpreet Sethi著)は戸田記念国際平和研究所の政策提言No.90「南アジアの戦略的安定性実現の複雑さ:インドの視点(Complexities of Achieving Strategic Stability in Southern Asia: An Indian Perspective)」(2020年9月)に基づくものである。

 冷戦時代、米ソ間の戦略的安定性という概念は、二つの考え方を中心に形成されていた。第1に、相手戦力の無力化のためであれ自国防衛のためであれ、先制攻撃は無益であることを両陣営が受け入れている場合に、戦略的安定性は実現されると考えられていた。このような状況を確立するためには、残存性を目指す技術的進歩の成功が不可欠であり、これは危機安定性と呼ばれるようになった。第2に、両陣営にとって攻撃力と防衛力の拡大競争を行うインセンティブが取り除かれた場合に、このような状況が確立されることがわかった。これは、相互脆弱性を受け入れることの上に成り立っていた。したがって、戦略的安定性は非挑発的核行動の約束を必要とし、それにより、危機時には核兵器使用のリスクを、平時には高コストな核軍拡競争のリスクを削減することができた。

 2010年代半ば、米国とロシアの関係が悪化し、中国が新たな核大国として台頭した結果、戦略的安定性は極めて高い緊張にさらされるようになった。今日、3カ国はいずれも戦略近代化に猛進しており、それが戦略的安定性の両側面に悪影響を及ぼしている。

 九つの核武装国の間には多くの2国間関係や核の鎖があり、それらが互いに影響を及ぼし合っている。特に、中国、インド、パキスタンという三つの核武装国を擁する南アジアでは、それが顕著である。これらの国同士の核の均衡はさらに、地域外の大国である米国の核ドクトリン、核態勢、核戦力により影響を受け、それはさらにロシアや北朝鮮との政治・軍事・核の緊張により影響を受ける。

 本稿では、戦略的安定性の実現を複雑にする南アジア固有の特徴のいくつかを明らかにし、課題の克服に向けたいくつかの対策案を提示する。

 理想的には、危機のリスクや軍拡競争による不安定性を回避するために、全ての核の2国関係が戦略的安定性を追求しなければならない。核兵器使用の可能性を最小限にするために、全ての2国関係の核武装国は相互の核ドクトリンと核態勢について理解を深め、懸念と疑念を軽減する方法を確立しなければならない。

 しかし、中国、インド、パキスタンの間の多様な抑止関係が複雑に絡み合う南アジアにおいて、そのような相互理解は特に困難である。未解決の領土問題も、脅威認識に拍車をかけている。国境が明確に定められていないため、一方が主張する領土に軍隊を駐留させると他方がそれを違法であると主張し、相互に非難し合う事態になっている。それだけでなく、このような常態的な小競り合いはエスカレートしていくリスクをはらんでいる。

 また、三つの核武装国の戦力態勢や戦力構成も相互に絡み合っている。中国が現在進めている戦略近代化は、米国の脅威を認識することによって駆り立てられている。その一方で、中国の戦力増強は、インドに懸念を引き起こしている。さらに、信頼できる核抑止力を確保しようとするインドの行動は、パキスタンの安全保障認識に影響を及ぼしている。

 インドとパキスタン、インドと中国の間で戦略問題に関する対話がない中で、不透明感がヘッジ行動を促し、新たな安全保障上のジレンマを作り出し、さらなる態度の硬化と地域における複雑性の増大をもたらしている。

 中国とインドにとって核兵器の役割は、敵の核戦力を抑止することである。しかし、立場の弱いパキスタンは、もっぱらインドの優位な通常戦力を抑止する目的で自国の核兵器を用いており、それを「条件の均等化」と見なしている。しかし、この均等性は、国境を越えたテロによる隠れた戦争を行い、その一方でインドの通常戦力による対応を抑止する口実として使われている。

 そのような姿勢は、戦略的安定性を目指す努力を複雑化する。パキスタンにとって、通常戦力におけるインドとの不利な均衡は極めて重大である。インドにとっては、パキスタンがテロのインフラを利用し、中国が軍事力や強硬姿勢を拡大することで、通常戦力の不均衡に関するパキスタンの懸念に対応する余地が狭まる。一方、中国にとっては、米国の軍事力の優位性が自国の戦力構築と技術進歩の促進要因である。 それだけではなく、これは南アジアにおける別の懸念のサイクルを引き起こし、戦略的安定性の実現見通しに影響を及ぼしている。

 全ての核武装国は、抑止力を確立するために独自の方法を見いだしている。

 パキスタンは、戦術核兵器の使用を含めた、核兵器の先制使用を想定することを好む。非通常的なテロ行為に対してインドが通常戦力で応じた場合、これと交戦しなければならない可能性を抑止するため、パキスタンは、抑止力を高める目的で核エスカレーションのリスクをちらつかせることを好む。そのような姿勢は、戦略的安定性にはつながらない。しかし、パキスタンは安定性を望んではいないようである。なぜなら、それによって、パキスタンが非通常的な行為を行うことができると認識する余地が奪われると考えているからである。そのためパキスタンは「管理された不安定性」を望んでいると言う人々もいる。

 中国は自国の核抑止力を高めるために、伝統的に不透明さを用いてきたが、今では曖昧さを用いている。中国は両用発射システムを展開し、通常戦力と核戦力を同じ基地に混在させており、その結果、「核の錯綜」のリスクが高まっている。これにより、通常兵器と核兵器が配備された基地を米国がうっかり攻撃し、それを中国が核攻撃と認識し、核エスカレーションに至るリスクが高まる。このようにして生まれた不確実性は、抑止力を高めるとされるが、にもかかわらず戦略的安定性の可能性を低下させる。

 抑止力を確立し、増強しようとするパキスタン(対インド)と中国(対米国)の戦略はいずれも、危機不安定性を増大させる。両国は、それぞれの視点から抑止崩壊の可能性を低くする目的でリスクを高めているが、実際には手に負えないレベルまで危険を高めている。

 インドが自国の核兵器に持たせている役割は狭く、そのためある程度まで、信頼できる最小限の抑止力と先制不使用(NFU)という安定化概念を通して抑止力を確立することが可能である。核兵器の早期使用または先制使用というプレッシャーから自由になり、敵国が自ら決定を下すようにすることによって、インドは、危機的状況の安定化に寄与している。もちろん、NFUの姿勢を敵国は信じがたいと思うかもしれないが、 インドの誓約が真摯なものであることは、その戦力構成と戦力態勢を見れば明らかなはずである。

 少数の核兵器を緩やかな警戒レベルで運用することが、戦略的安定性につながる。中国とインドは、ある種の戦略的安定性を達成するために、この方針を採っている。しかし、中国は自身が認識する米国の脅威に対抗するために、いっそう曖昧性を用いるようになり、戦力態勢を変化させる可能性があるため、南アジアの状況も変わるだろう。

 多くのテロ組織がパキスタンに存在し、国家の支援を受けていることは周知の事実である。これらの組織は、何十年にもわたって影響力、到達範囲、勢力を拡大してきた。究極のテロ手段として彼らが核兵器または核物質を手に入れた場合、抑止は大きな緊張にさらされる。代理行為者もまた独立した考えを持っており、彼らを後援することによって、地域に戦略的安定性を確立することが難しくなる。国家間の信頼レベルが極めて低い場合は特に、テロ組織の行為は危機のエスカレートをもたらす。

 核武装国は、互いの脅威認識、戦力態勢、戦力構造を理解するために、対話のメカニズムを持つべきである。意見交換によって核リスクに対する共通の理解も進み、それによって戦略的安定性に向けた行動が促進される可能性がある。

 しかし、南アジアの三つの核武装国は、信頼の欠如と戦略的対話の不在に悩まされている。二つの2国間関係にはいくつかのポジティブな特徴が見られるだけに、これは皮肉なことである。例えばインドとパキスタンの場合は、核に関する信頼醸成措置がすでに存在している。両国とも、相互信頼と戦略的安定性を促進する措置を盛り込んだラホール宣言に調印したという点で、素晴らしい先見の明を示した。しかし、1999年に宣言が調印されて数カ月も経たないうちに、パキスタン軍が隠密裏にインド領を占領し、それとともに度重なるテロ攻撃、疑惑の主張とそれに対抗する主張の応酬がなされた結果、2国間の対話が断絶、姿勢が強硬化し、近い将来に戦略的安定性を目指す取り組みがなされる見込みはなくなった。

 インドと中国の場合、対話がなされない理由は、中国がインドを核兵器保有国として受け入れる柔軟性を持たず、核問題への取り組みを拒否しているからである。それと同時に、中国が積み上げてきた実体的権力と国際的影響力は、近頃の行動を変容させ、対話の可能性を削いでいる。ラダック地方で継続している中印の膠着状態を考えると、インド政府は姿勢を硬化させたものと思われる。今日の均衡は、長年かけて形成された国境管理メカニズムが崩壊する恐れをはらんだ難しい岐路にある。このような状況で、戦略的安定性を目指して核問題に関する対話ができる見込みは、かなり低いと思われる。

 戦略的安定性を求める共通の願いは存在すらしていないかもしれないという現実を考えると、それを実現するための措置を提案することはリスキーである。しかし、本論文ではあえて、政治情勢が整った際に検討し得るいくつかの案を提示する。

 興味深いことに、戦略的安定性を確立するためのいくつかのアイデアは、インドと中国のおおむね似通った核ドクトリンに見られる二つの姿勢から得られる。その第1は、信頼できる最小限の抑止力(CMD)、あるいは「核の十分性」で、大量かつ無制限の備蓄を避け、受容できない被害をもたらすために必要な最小限の量で満足を示す考え方である。第2に、先制不使用(NFU)は、敵国に対し、彼らが核兵器を使用することを選ばない限り核兵器の標的にならないことを保証することにより、危機安定性の確立に寄与する。「使用か敗北か」というジレンマから敵国を解放することが、NFUの重要な利点である。現時点でインドと中国の核戦力構成はこれらの教義的原則を中心に築かれており、戦略的安定性を促進するものである。

 しかし、現在の核兵器をめぐる国際情勢を考えると、上記の教義的原則を守り続けることは難しいかもしれない。そのような情勢の一つは、限定核戦争という概念の復活である。限定核戦争の考え方は、中国の戦略能力の拡大をもたらす。それは米国に向けられるものとはいえ、南アジアの戦略的安定性にも関係がある。中国またはインドの変化を求める圧力に彼らが屈する前に、2国間または多国間メカニズムを通して、より安定的な現行ドクトリンの立場を自らの利益として受け入れることが最善であろう。

 戦略的安定性には、兵器の残存性に対する信頼性、相互脆弱性の受容という、二つの前提条件が必要である。幸いなことに、南アジアの三つの核武装国はこれらの条件を満たしている。いずれも、確実な第2撃能力を構築しており、したがって第1撃による戦力無力化の可能性を排除することができる。第2の条件についても、3カ国の地理的規模と人口規模を考えると、それぞれが互いの核兵器に対して脆弱であるという事実から目をそらしようがない。3カ国のいずれも、敵国の核攻撃に対して有効に防衛することができるレベルの損害限定能力は構築していない。

 したがって、南アジアは戦略的安定性の条件を具現することができる。危機不安定性のために核戦争が勃発することを避けるため、実効性のある安定した核関係を確立することが、3カ国のいずれにとっても利益となる。同時に、国の経済状況を考えると、どの国も不必要な核軍拡競争に資金をつぎ込む余裕はない。戦略的安定性の合意を結ぶことで、それぞれが国家の優先順位における核兵器の役割についてバランスの取れた見解を維持することができるだろう。

 中国がインドと対話しないことへの固執を乗り越えることができれば、互いの脅威認識、ドクトリン、戦力態勢を理解するために、両国間の戦略的対話が格好の出発点となるだろう。

 第2に、警戒レベルの緩和を公式化することによっても、危機安定性を大幅に高めることができる。幸いなことに、中国、インド、パキスタンの軍備は、すでにそのような状態にある。これを公式化する合意は、特に核武装国の間で結ばれれば、有益なステップとなるだろう。なぜなら、中国は米国から同等の待遇が得られなければ警戒レベル緩和には合意しないであろうし、米国もロシアに同じことを求めるからである。

 最後に、抑止崩壊がもたらす影響を各国が認識し、理解することが最も重要である。核の応酬がもたらす影響について知ることを契機として、共同研究や、さらにはそれをテーマにした映画を通し、戦略的安定性の構築という共通の願いを生み出すことができるだろう。

 南アジアで核エスカレーションが起こる理論的可能性は依然としてある。しかし、核兵器使用へのインセンティブを抑制することによって、それを最小限に抑えるべきである。なぜなら、どのような使い方であれ、それがもたらす人道的危機に対処する医療・社会インフラを持つ国は世界中どこにもないからである。ほんのいくつかのきのこ雲が上がった場合に起こることに比べたら、コロナ禍の悲惨さはまだ小さいと思えるかもしれない。全ての核武装国は、この現実に目覚める必要がある。

マンプリート・セティ博士は、ニューデリーのインド空軍力研究センターで特別研究員として、核安全保障に関するプロジェクトを率いている。過去20年にわたり、セティ博士は、原子力、戦略、不拡散、軍縮、軍備管理と輸出管理、BMD(弾道ミサイル防衛)について研究および執筆を行っており、著名な学術誌数誌に100篇を超える論文を発表している。2012年に首相の軍縮に関する非公式グループのメンバーを務め、インドのトラックIIイニシアチブに関与した。セティ博士は、優れた戦略・安全保障研究に授与される名誉ある賞、K・スブラマニアン賞の受賞者である。
なお、2020年には、文民としては稀なことに、その尽力と専門的能力に対してインド空軍参謀長より表彰を受けた。