政策提言

気候変動と紛争 (政策提言 No.94)

2020年10月13日配信

気候変動と安全保障: インドの視点

ロバート・ミゾ

 本稿(Robert Mizo著)は戸田記念国際平和研究所の政策提言No.94「気候変動と安全保障: インドの視点(Climate Change and Security: Perspectives from India)」(2020年10月)に基づくものである。

 気候変動シナリオにおけるインドの安全保障の未来は不確実である。本論文では、気候に起因する大量移住、国内動乱、国境警備の弱体化、原理主義の台頭など、インドが直面する課題の分析を試みる。より広い国家安全保障の文脈において気候変動を主流化し、織り込もうとする政府の努力を詳細に検討し、最後に政策上の主な考慮事項を提示する。

 気候変動は、気温上昇、ヒマラヤ山脈や北極圏の氷河融解、海面上昇、異常気象、降雨量変動など、いくつかの不可避な地球物理学的な影響を及ぼすことが科学的に立証されている。これらは、住居の喪失、食料と水の不足、自然災害、病気の流行といったさまざまな形で、人々の生活を不安定にする恐れがある。
 インドに関する地球物理学的予想としては、年間平均気温の上昇と極端な気温の上昇が予測され、特に沿岸地域に影響を及ぼすと考えられている。これにより、インドの夏季モンスーンにおける降雨量が増加すると予測される。
 気温上昇は、ヒマラヤ地域の氷河湖の決壊と下流の洪水、その後の干ばつを引き起こすと考えられる。ヒマラヤの氷河を源流とし、インド亜大陸に暮らす何億人もの人々のライフラインである河川は、水流パターンが不規則になり、洪水と干ばつの増加を引き起こすだろう。
 地球規模の海面上昇は、7,500kmに及ぶインドの海岸線といくつかの島嶼群に沿って、地域の沿岸集落、沿岸の経済、文化、生態系へのリスクを増大させるだろう。
 2030年代にはインド亜大陸におけるサイクロンの強度が増大するとともに異常気象が増加し、インド東海岸の住民に最も深刻な影響を及ぼすと予測されている。

 将来、気候変動が紛争を引き起こすかどうかは不明であるが、気候変動による物理的影響によって社会経済的および政治文化的亀裂が広がり、悪化することは立証されている。以下の節では、これらの差し迫った影響がインドにもたらし得る副次的影響を検討する。

 気候変動がインドにもたらす影響のうち、重大な安全保障上の懸念を引き起こし得るものの一つは、気候に起因する大量移住である。一部の地域が、地表温度の上昇、降雨パターンの変化、自然災害に直面するためである。国内避難モニタリングセンターによれば、インドは災害避難民の絶対数が南アジアで最も多く、世界的にも最多国の一つである。海面が1メートル上昇すれば、人口密度の高い沿岸地域の住民710万人が避難民化する可能性がある。
 国内移住は貧困層や周縁化された人々に偏って影響を及ぼすため、国内に浸透する社会的および政治的均衡を混乱させる恐れがある。極端な場合には、集団間、地域間、言語間の既存の亀裂をいっそう悪化させる恐れもある。将来、生態系資源、経済的機会、食料の不足がいっそう深刻化すれば、インドの国内移住は大幅に増加し、法と秩序の問題、さらには全面紛争まで引き起こすと予測される。
 国内移住に加え、気候難民の国際移住は、インドの安全保障体制に膨大な負荷をもたらすと考えられる。ガンジス川・ブラフマプトラ川・メグナ川(GBM)デルタ地帯は、さまざまな研究者によれば、インド・バングラデシュ間の将来的な気候安全保障上のホットスポットになると思われる。GBMデルタの上流部で、環境難民がインド側に流入すると考えられるからである。これが隣り合う両国の関係をかき乱すことは必至である。気候に起因する移住は、地域に存在する宗教・民族的対立と相互作用するからである。

 インドでは、総人口の50%以上が農業で生計を立てている。気候変動によって水不足が悪化し、沿岸部やすでに大きな負荷がかかっている水系インフラには洪水に伴う損害が生じ、気温上昇や病害虫発生率の上昇によって植物が育たなくなるため、穀物や農作物が不足するだろう。
 また、インドでは天然資源をめぐる紛争が土地に関連して発生している。気候変動に起因する気温上昇と不規則な気象現象によって、耕作に適した肥沃な土地が減少すると、政府が開発事業のために土地を収用する必要性が高まる。それに対して、土地所有者である貧困層の大衆は、より組織的な方法で反対運動や抵抗運動を激化させざるをえなくなる。このような土地をめぐる人々対国家の紛争は、国家に安全保障上の重大な問題をもたらす恐れがある。

 気候変動がヒマラヤ地域に影響を及ぼし、氷河後退や寒冷砂漠の融解を引き起こすにしたがい、係争中の国境に沿って安全保障上の新たな問題が浮上する恐れがある。これまで到達不可能だった地帯が容易に行き来できるようになると、インド・中国間、インド・パキスタン間の国境に沿って不安定性が高まり、軍事力が分散されて国境沿いの重要な軍事活動が手薄になるかもしれない。そのため、一部の安全保障アナリストは、インドは気候変動によって、多岐にわたる新たな戦略シナリオに対応するために、軍事力を増強する必要が生じると主張している。しかし、気候変動後の未来においても、持続可能な平和を維持するという点では、国際協力と協調外交が優先されなければならないと主張することができるし、するべきである。
 さらに、気候変動によってヒマラヤの氷河が融解し、アジアの給水塔が不安定化すれば、地域の水供給システムの多くに混乱が生じる。そのような場合、インドと継続的な水分配問題を抱えている中国、パキスタン、ブータン、ネパールのような国々は、インドの水の安全保障上の利益を損なう恐れのある行動に出るかもしれない。水危機が悪化する状況において、インド側の水道事業およびインフラは、パキスタンの反インド勢力のソフトターゲットになる恐れがある。
 隣国中国で気候変動による水不足が悪化した場合、中国はヒマラヤまたはチベット高原の支配地域に源流を持ち、インドの多くの人々が生計を依存している河川をダムでせき止めたり、流れを変えたりする大規模な土木事業によって水需要を満たそうとすると予測されている(そして、それはすでに明白になっている)。事実、中国は「水の兵器化」を行っており、2国間協定があるにもかかわらず、生態系データをインドの担当機関になかなか伝えようとしないと見られている。

 パキスタン、バングラデシュ、中国との国境沿いの主要拠点にあるインドの軍事施設は、生態学的に脆弱な地域にある。一方、原子力施設、特に沿岸部にある施設は、高潮、サイクロン、海面上昇に対して影響を受けやすい。また、天候関連災害の発生率上昇に対処するために実施される人道支援/災害救援ミッションが増加していることでも明らかなように、気候変動は災害管理部隊の負担を大きくし、インドの軍事力を分散させると考えられる。

 インド政府は、政策面では気候変動を適切に把握し、対応している。しかし、政府は気候変動が本質的に安全保障問題であるとはまだ認識していない。 2007年の気候変動に関する首相諮問会議では、2008年気候変動国家行動計画(NAPCC)の政策指令の骨組みを策定した。この行動計画には、エネルギー効率、沿岸地帯、ヒマラヤの生態系、持続可能な居住および農業、水、森林、気候変動に関する戦略的知識など、さまざまな分野における八つの国家ミッションが盛り込まれている。国家行動計画に加え政府は、各州に対して国家計画に沿ったそれぞれの州の気候変動行動計画を策定するよう命じた。
 インドは、国際的な気候外交において主要な役割を果たしている。国連気候変動枠組条約に基づく協定の立案にも尽力してきた。また、中国とともに77カ国グループの利益を代表する主導的役割を果たしてきた。そして、「歴史的責任」と「共通だが差異ある責任」の原則を強力に支持することにより、気候変動交渉のプロセスに公平性と公正性を取り入れるよう闘った。1997年の京都議定書 に署名しこれを批准、2015年のパリ協定にも署名しこれを批准した。インドは、2030年までに炭素排出強度(単位GDPあたりの排出量)を2005年の水準から33~35%削減することを誓約し、2030年までに発電設備容量の40%を非化石燃料によるものとすることを約束している。2020年時点におけるインドの進捗状況に関する経済全体の分析に基づき、気候アクション・トラッカーは、インドが現在実施している政策によってNDC目標(国別削減目標)を達成することができると結論づけている。
 気候変動に関するインドの公式政策文書は、気候変動がインドにとって主に環境的および社会経済的懸念であり、安全保障上の困難という面は少ないことを示している。実施されている政策措置は、気候変動による地球物理学的影響を改善し、社会経済的な副次的影響を低減するために策定されている。インドは、国内外において、気候変動を安全保障問題化しようとする動きに慎重な姿勢を取っている。インドは、一部の個別のケースでは気候によるリスクは明白であると認めているにもかかわらず、気候変動と安全保障との間の全般的な関連性は「不明瞭」であると見なしている。

 インドは、環境政策および経済政策の面では適切な対応をしているものの、気候変動に当然払われるべき安全保障上の注意をまだ払っていない。しかし、近い将来気候変動が紛争を勃発させることはないかもしれないが、国家の状況を考えると既存の安全保障問題を悪化させることは間違いない。
 したがって、インドは「準備する責任」がある。インドの安全保障アジェンダを再検討する際にはそのような準備と能力向上を反映させ、上述のような気候変動に起因する安全保障上の脅威を盛り込む必要がある。
 重要な安全保障インフラに対する気候変動の影響に対処するためには、軍のあらゆる部門の適応能力を高め、気候変動に対する回復力を整備する必要がある。例えば、予期せぬ課題に対応できるよう、国家災害救援部隊を改革、合理化、強化するなどである。
 さらに、気候変動に対するインドの国家戦略の一環として、地域協力を強化する喫緊の必要性がある。南アジア地域協力連合(South Asian Association for Regional Cooperation:SAARC)の支援のもと、また、他のアジア地域の国やより広範な国際社会との協力のもとで、科学的データ、知識、研究、資源、専門知識を共有することを、インドの気候外交政策における戦略の一環とするべきである。
 国際移住、特にガンジス川・ブラフマプトラ川・メグナ川地帯における移住の増加が予測されることから、地域/民族紛争の勃発を防止するための適切な法制度の整備など、国境および海洋安全保障協定の改定が求められるべきである。
 インド政府は、特に土地と水に関連する資源不足がもたらすリスクに留意するべきである。ダム建設や鉱山開発といった大規模開発事業は、現地住民の利益を犠牲にして行うべきではない。それがもたらす貧困化と権利剥奪は、自国育ちの原理主義の台頭を招く、あるいは既存の過激主義に拍車をかける恐れがある。
 また、インドはコロナ禍が人間の安全保障に及ぼした大きな影響から教訓を得て、このような衛生上の緊急事態に備えなければならない。気候変動によって、今後このような事態がいっそう頻繁に起こることは間違いないからである。
 全ての省庁は、気候に配慮した政策を策定するとともに、切迫する変化により良く適応できるよう、気候がもたらす安全保障上の脅威を政策策定プロセスに盛り込む必要がある。
 最後に、気候安全保障の危機を専門に担当し、気候安全保障への負荷を監視するとともに、政策立案者に対して適切な行動指針を助言する機関を設置する必要がある。

 本稿は、戸田記念国際平和研究所の英文ウェブサイト上に引用文献も含めて掲載した政策提言No.94の要約版である。

ロバート・ミゾは、デリー大学カマラ・ネルー・カレッジの政治学および国際関係学助教授である。デリー大学政治学科より気候変動政策研究で博士号を取得した。研究関心分野は、気候変動と安全保障、気候変動政治学、国際環境政治学などである。上記テーマについて、国内外の論壇で出版および発表を行っている。