2022年07月15日

追悼:武者小路公秀

武者小路公秀教授、1929年―2022年

 

 武者小路公秀教授のご逝去の報に接し、戸田記念国際平和研究所は謹んで哀悼の意を表します。武者小路先生は長年にわたり当研究所の活動を支援してくださり、私個人にとっても親しい友人でありました。

 武者小路教授は1929年にベルギーのブリュッセルで生まれ、2022年5月23日に92歳でご逝去されました。国際関係論と平和研究を中心に、長きにわたる優れた学問的キャリアをお持ちでした。実際、平和研究が学問として認知されるずっと以前から平和研究者でありました。

 しかし、決して机上の学者で満足することなく、非暴力の推進、暴力的紛争の平和的解決、あらゆる場所での軍国主義の終焉にその生涯を捧げたのです。また、国連を強化し、日本や世界の人権、多文化、寛容を推進するために、休むことなく擁護し続けました。

 武者小路教授は、学習院大学法学部政治学科、パリ大学政治学院を卒業されました。その後、学習院大学で際立ったキャリアを重ねられ、1968年から1976年まで上智大学教授、1969年にご自身で設立した同大学国際関係研究所所長を務められました。国連大学副学長を13年間務め、明治学院大学教授(1989-1998)、フェリス女学院大学教授(1998-2000)、中部大学教授(2001-2004)、2013年から退職するまで、大阪経済法科大学特任教授を歴任されました。

 教授との出会いは、タシケントで行われた国連大学とソ連科学アカデミーが主催する核軍縮に関するワークショップでした。教授は、貴族のご出身でありながら、決してエリート主義的な考え方で人と接することはありませんでした。むしろ反対に、あらゆる階層、あらゆる文化の人々と心を通わせる驚くべき才能の持ち主で、このワークショップでもその才能を発揮されていました。また、日本語、英語、フランス語、スペイン語に堪能であり、政治的な見解に関係なく、全ての人と強い協力関係を築く素晴らしい才能もお持ちでした。私は、ワークショップでも、また先生のご生涯を通じても、対話と積極的な傾聴を促す能力に感銘を受けておりました。タシケントの後も、多くの会合に私を招待してくださいました。

 武者小路教授は、誰に対しても分け隔てなく接し、肯定的で、励ましを送る方でした。また、揺るぎない意見を力強く述べると同時に、異なる意見の持ち主を深く尊重することができる方でもありました。国際主義と人種差別反対への献身は、ご自身の混血児としての体験、そしてローマ・カトリックとマルクス主義の思想的影響もあったと思います。氏はフランス人のクオーターで、7歳で日本に帰国した時、学校の仲間から「純日本人」ではないといじめられたそうです。このいじめが、氏の生涯の仕事を方向付けた原点となったのです。

 また、世界中の少数民族や社会から取り残された人々の擁護者でもあり続けました。そのため、教授はそうした人々の大規模で活発なネットワークを持っており、彼らは、自分たちの声が確実に届き、抑圧や搾取を受けないようにするために、教授がしてくれた全てのことに深く感謝していました。例えば、反差別国際運動(IMADR)の副理事長(後に名誉理事長)、アジア・太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)の会長、大阪国際平和センター(ピースおおさか)会長を務めました。

 さらに、早くから環境の持続可能性を提唱していました。例えば、1990年代後半に東京で夕食をご一緒したとき、差し出された割り箸を使わず、自分の箸を買い求めたのにはとても感心しました。この小さな行動が、自分の行動と信念を一致させたいと願う彼をよく表していました。

 また教授は、国際平和研究学会を熱烈に支持してくださり、ケネス&エリース・ボールディング夫妻やヨハン・ガルトゥングなど、平和研究の先駆者たちと密接な関係を築いておられました。

 私たちは、偉大な学者であり、日本の国際主義者であり、そして素晴らしい人間を失いました。ご遺族の皆様、そして彼と知り合う栄誉を得た全ての方々に、心よりお悔やみを申しあげます。

戸田記念国際平和研究所所長
ケビン・P・クレメンツ

Image: https://www.mushakoji.com/