Cooperative Security, Arms Control and Disarmament ジョージ・パーコビッチ | 2020年12月17日
核兵器国は使用後責任を受け入れるか?受け入れないなら、それはなぜか?
核兵器禁止条約(TPNW)を批判する者も支持する者もほとんど注意を払っていないが、この条約には過去および将来起こり得る核兵器の爆発に対する法的責任を定める条項がある。条約は個々の締約国に対し、特に「核兵器の使用または実験により被害を受けた締約国に、技術的、物質的、財政的支援を提供する」こと、そして「核兵器または他の核爆発装置の使用または実験の被害者に支援を提供する」ことを求めている(第7条)。ここに述べられている被害者とは、核保有国の決定に対する発言権も、決定による利益もない非交戦国かもしれない。
核兵器使用による被害の補償を軽視することにより、各国政府は核兵器がもたらす危険という問題から安易に逃げ続けている。このような姿勢は、多くの国が抱いている「核抑止に依存する国は、そうでない国に対して共感を持っていない、他国の指導者の罪なき人質として生きることがどういうことか分かっていない」という感覚を裏付けるものである。そのような共感性の欠如は、世界の核秩序の根底にある不正義にさらに追い打ちをかける。1970年の核不拡散条約の下では、5カ国が核兵器の保有を認められ、それ以外の国は認められていない。
核軍縮は、これらの問題を解決する一つの方法である。しかし、たとえ核兵器保有9カ国すべてが核兵器を放棄することに同意したとしても(今のところそのような気配はまったくないが)、核軍縮を実施するには長い年月を要する。核兵器が廃絶されるまでの間も、武力衝突が大量の犠牲者を出す核戦争へとエスカレートするという大惨事を防ぐために何らかの核抑止を維持する必要が出てくるだろう。法的責任の問題がより大きく注目されれば、核兵器保有国の間で自制と抑止が強化され、TPNWの擁護派からも批判派からも評価が得られるはずである(これらの問題について詳しくは、Journal for Peace and Nuclear Disarmament(「平和と核軍縮」)に掲載された筆者の論文を参照されたい)。
使用後責任に目を向けることを批判する人々は、核兵器保有国がTPNWに署名および批准することはないのだから、結局、義務も生じないと主張するかもしれない。しかし、この点は、核兵器禁止条約の考え方の欠点ではなく、目玉である。核兵器保有国が核兵器を放棄したくないというのであれば、少なくとも、彼らが国民や環境に害を及ぼすかもしれない国々を支援する気があるかどうかを明言するべきである。核兵器保有国は、自らを防衛主体の責任ある国家であると表明し、少なくともそのうちの一部の国は核兵器の使用は限定的なものにできると主張している。それならば、彼らはなぜ、非交戦国に与え得る害を是正することに反対しなければならないのだろうか?
これらの国々が自国の核兵器使用による被害者に技術的、物質的、財政的支援を提供する責任を拒めば、核軍縮を求める世界の声はますます大きくなる。また、核兵器の使用は限定的なものにとどめられるという自国や他国の国民への主張も揺らぐことになる。核兵器使用の影響は必ずしもそれほどひどくないというのなら、なぜその使用した結果を受け止めようとしないのか?
責任を受け入れるという国々は、誓約した支援をどのように実行するかを説明し、そのために用意した人的、財政的資源を示すよう(繰り返し)求められるかもしれない。生じ得る損害の大きさと、その結果必要となる支援の規模は、使用する核兵器の想定される数、爆発出力、標的によって決まる。また、核兵器の種類や数、および標的設定計画に伴うリスクについて国際的に議論することで、最も高いリスクの低減に注力することができるだろう。
使用後責任という概念に対するもうひとつの反応は、「馬鹿げている、どうせみんな死ぬんだから」である。核軍縮論者も核抑止論者も、同じようにこれを言う。軍縮論者は、ある標的に対して、ある数、あるタイプの核兵器を使用すれば、人道的、環境的大惨事をもたらさずに済むという考え方を信じていない、あるいは認めることができないからである。抑止論者は、限定核戦争を想定することは核兵器使用に対する自制を緩め、ひいては抑止力を弱める、あるいは、国家を核による反撃戦というきわめて高コストで不安定な道に進ませると考える人々がいるからである。国際的責任、外国人への支援、環境修復のための支出、という考え方が概して好きではないという人々もいる。
核爆発がもたらし得る破滅的な影響に焦点をあてることは、多くの非核兵器保有国、さらには核兵器保有国の一部同盟国においても市民社会の注目を集めている。しかし、核兵器保有国が国民に対し、核兵器はそれを使わなくても済むように戦争を抑止するものなのだ、と言い聞かせて軍縮(そしてTPNW)への圧力をそらすことはあまりにも容易である。抑止は機能するのか、核兵器のあらゆる使用が人道的大惨事をもたらすのかについて勝者なき論争を展開するよりも、保有国がその核行動の結果を(もし生き残っていれば)修復することに責任を取るつもりがあるか否かを知るほうが、国際社会にとっては明確さが得られるだろう。
この問題について(可能な国では国内で、すべての国にとっては世界で)議論することは、多くの人にとって、核兵器そのものに関する論争より包括的で興味深いものとなるだろう。また、核使用の影響に対する責任を問い続けることによって、各国の指導者たちは核軍縮が進捗しない責任は自国と敵対国のどちらが重いかを議論するよりも、真剣さと自制を示さざるをえなくなるだろう。たとえTPNWの核軍縮目標が達成されなくても、条約にある責任を定める条項がそれにふさわしい大きな注目を集めるのであれば、十分に役立っているといえるだろう。
ジョージ・パーコビッチは、ワシントンDCのカーネギー国際平和基金でケン・オリビエおよびアンジェラ・ノメリーニ寄付講座教授および研究担当副所長である。彼は、Abolishing Nuclear Weapons: A Debate (2009)の共同編集者であり、直近では “Toward Accountable Nuclear Deterrents: How Much is Too Much?” という論文を執筆した。