Global Challenges to Democracy デバシシュ・ロイ・チョウドリ  |  2024年08月29日

バングラデシュは「アラブの春」と同じ運命をたどるのか?

Image: Mamunur Rashid/shutterstock.com

この記事は、2024年8月27日に「The UnPopulist」に初出掲載され、許可を得て再掲載したものです。

 この国が「アラブの春」経験国の多くと同じ運命をたどり、世俗的独裁から別の独裁に切り替わるという現実的な危険がある。

 今月、バングラデシュのシェイク・ハシナ・ワゼド首相(現在は失脚)に抗議する学生と兵士らが挨拶を交わすなか、ダッカのシャーバッグ地区で見られた光景は、13年前の2月のある晩にカイロのタハリール広場で起こったことの記憶を呼び覚ました。タハリール広場の暴動は、30年にわたってエジプトを支配したホスニ・ムバラク政権に終止符を打った。同様にシャーバッグの暴動でも、2カ月にわたる膠着状態の末、強大なバングラデシュ軍がハシナ支持から手を引いたことで力の均衡が崩れ、抗議者らに有利に傾いた。

 ハシナに政権の幕を下ろさせ、インドへの逃亡を余儀なくさせた民衆の抗議には、「アラブの春」との明らかな類似点が見られる。しかし、あちらはめでたく終わらなかった話であるだけに、残念な比較である。事実、あの瞬間の舞台となった国々のほとんどは、人権を守る民主主義国家ではなく別のタイプの独裁国家へと移行した。

 ハシナは、ホスニと同様、一見すると世俗的な支配者であった。しかし、彼女は、現代的な独裁術を身に着けていた。統治機関を掌握し、反対派を投獄し、選挙を不正操作し、選挙の実施によって民主主義国家の体裁を維持しながらも世界第3位の人口となるイスラム教徒多数派国家を一党独裁国家へと変容させた。15年にわたる強権支配の劇的な終焉は、いまや新生バングラデシュへの希望をかき立てている。ノーベル賞受賞者が暫定政権のトップに就き、「Z世代革命」を率いた学生たちの強い要求により、統治機関における全面的な粛清が行われているところだ。

 希望は、ありありと感じられる。しかし、不安もしかりである。なぜなら、ハシナの世俗的独裁によって空白化した政治空間を最終的に誰が埋めるかが、現時点では不明のままだからである。

 政権崩壊を引き金として、特にハシナが党首を務めるアワミ連盟の職員や支持者に対する暴力や放火が誘発されている。アワミ連盟は、1971年にパキスタンによる厳しい支配からのバングラデシュ独立を導いたという栄誉ある歴史を持つ同国最古の政党である。ハシナによって長年抑え込まれてきたイスラム教的要素が再び自己主張するようになると同時に、憂慮すべきレベルの暴力が、この国の宗教的少数派、特に1億7,000万人の人口の約8%を占めるヒンドゥー教徒に対して向けられるようにもなっている。イスラム強硬派が強力な政治勢力として再浮上するという懸念が、いまやバングラデシュに大きく迫っている。

 バングラデシュはパキスタンの一部だったころ東パキスタンと呼ばれていた。パキスタンのパワーエリートが東パキスタンのベンガル民族主義者と権力を分かち合うことを拒否したことを受け、血の海の中から国が誕生した。バングラデシュとインドにまたがる多宗教集団であり、ベンガル語という共通言語に基づく独自の文化的伝統を持つベンガル人に対し、米国の支援を受けたパキスタン軍司令官らは大虐殺の暴挙に出た。それにより難民がインドに逃亡し、それを受けてパキスタンとインドの間に戦争が起こった。パキスタンが屈辱的敗北を喫したことで、東パキスタンは分離を果たし、ハシナの父でありベンガル人の抵抗運動を率いたシェイク・ムジブル・ラーマンの指揮のもと、バングラデシュを建国したのである。以来、包摂的なベンガル文化に基づくナショナリズムがバングラデシュの政治を支配してきたが、ベンガル人であることよりもイスラム教を国家と国民の最も重要なアイデンティティーと見なす排他的イスラム・ナショナリズムの政治勢力と競い合うことを余儀なくされている。

 進歩的世俗主義と宗教原理主義というこれら二つの対立する勢力は、1947年に英国の植民地支配者がインド亜大陸を去り、インドとパキスタンを二つの異なる国に分離して以来、バングラデシュの政治において共存してきた。二つの地域はインドによって真ん中から分割されていたにもかかわらず、英国は現バングラデシュを含むイスラム教徒人口が多い地域のほとんどをパキスタンに渡した。

 つまり、東パキスタンのイスラム教徒としてのアイデンティティーが1947年のインドからの分離をもたらし、バングラデシュのベンガル人というアイデンティティーが1971年のパキスタンからの分離をもたらしたのである。以来、この国の政治闘争はこれら二つのアイデンティティーの争いであり続けてきた。

 ベンガル民族主義の旗手として、ハシナは、2009年に2期目の首相の座に就いて以来、急進的な世俗主義者としての立場を打ち出してきた。彼女の強硬路線は、息子のサジーブ・ワゼド・ジョイと元米軍将校のカール・J・チョバコ(Ciovacco)が2008年11月に共同執筆した「ハーバード・インターナショナル・レビュー」掲載論文にさかのぼることができる。その中で彼らは、バングラデシュのイスラム化のリスクを強調し、急進化を抑える手段としての世俗化を提案している。ハシナは、自身の支配を強固にするために世俗化を戦略的に利用し、イスラム主義組織だけでなく対抗政党をも弾圧し、全ての政治的反対勢力にイスラム主義者のレッテルを貼った。

 中東の大部分と同様、西側も(インドのような地域国も含め)ハシナの独裁から目をそらした。なぜなら、それ以外の選択肢はイスラム主義になると恐れたからである。革命が終わり、生活が平常に戻った今も、国家権力を実際に誰がコントロールするかについてはほとんど不透明である。ハシナの失脚によって最も利益を得る勢力が誰かを考えると、多くの不完全さや虚飾にまみれた世俗的国家バングラデシュは衰退の一途をたどる可能性が高い。

 運動を率いた学生たちはバングラデシュに対する進歩的ビジョンを掲げており、有名なマイクロファイナンスのパイオニアであるムハマド・ユヌス率いる暫定政権はリベラルなロードマップを提示している。しかし、どちらも、権力を保持する組織的な政治構図を持たない。ユヌスが力を持つのは、学生らの信頼を勝ち得ている間のみであり、バングラデシュは、事態が収拾するまで国内外の緊張をなだめるためにリベラルな顔をする必要がある。学生たちが力を持つのは、街路を占拠している間のみである。その後はどうか? また、彼らは、イスラム強硬派に賛同する者も多く、均質な組織体ではない。ダッカ大学のある学部長は、学生がキャンパス内でコーランを朗誦するのを許可しなかったことを理由に8月下旬に辞職に追い込まれた

 国家運営に当たる暫定政府には、反ハシナ運動を扇動した進歩的な「反差別学生運動」のリーダー2人が含まれている。また、学生らは、アワミ連盟と主要野党のバングラデシュ民族主義党(BNP)の二頭支配を終わらせるため、彼ら自身の政党を立ち上げることを検討していると伝えられている。バングラデシュでは伝統的に、二大政党と軍が代わる代わる権力を握っていた。しかし、アワミ連盟は混乱状態に陥っており、新たな政党が仮に結成されるとしても成功を収めるかどうかは分からない。とすると、軍、BNP、そしてBNPとかつて同盟関係にあったイスラム主義組織ジャマーアテ・イスラーミーが、ポスト・ハシナのバングラデシュで受益者となる可能性がある。バングラデシュはある種の独裁を別の独裁と交換しようとしているのだろうかと考えてしまうのも、無理はないだろう。

 バングラデシュ自体がイスラム主義に傾いていることは別として、現在、同国の政治をさらに複雑化しているのは地域を取り巻く環境である。ナレンドラ・モディ首相率いるインドでヒンドゥー至上主義政治が台頭し、この巨大な隣国の世俗的価値観が顕著に衰退していることは、バングラデシュ国内のイスラム主義者の声をいっそう強め、以前であればインドを南アジアのリベラリズムの道しるべとして挙げたであろうバングラデシュのリベラル派を弱体化させるばかりである。

 インドのヒンドゥー至上主義指導者らは、インド人イスラム教徒を他者化する悪態として「バングラデシュ」を使っており、インド国内のイスラム嫌悪の政治に隣国を直接関連付けようとしている。そのため、バングラデシュは、インドの多数派優位主義的なアイデンティティー政治の影響から身を守ることがいっそう難しくなっている。ヒンドゥー・ナショナリズムを掲げる与党インド人民党(BJP)の首脳らは、街頭演説の際、しばしばバングラデシュ人の「移民」をインドの資源を食い尽くす「シロアリ」と呼ぶ。それは、インド人イスラム教徒もその中に入るという隠微なほのめかしである。ニューデリーがハシナの独裁政権を無条件に支援してきたことも、インドに対する反発をいっそう高め、イスラム主義者らの意を強くするばかりであった。権力の真空においてイスラム主義者が優位に立ち、その結果、軍が彼らを抑えるために口実を作って首を突っ込み、国際社会が全面的にそれを支持するというシナリオも、エジプトを見れば荒唐無稽ではない。

 ここには、バングラデシュにリベラリズムの輝かしい黎明をもたらす吉兆はない。蜂起の成功が真の民主主義への移行につながることは、結局のところ滅多にないのだ。2010年に「アラブの春」が始まり、ある程度の限定的成功を収めたチュニジアを除き、専制主義に対する民衆の抗議を経験した他の国々の中で、その後実際に民主主義が定着した国は皆無である。

 内戦に陥った国もあれば、負けず劣らず専制的な体制に置き換わっただけの国もある。エジプトは、ホスニ・ムバラクを退陣させたが、ムスリム同胞団の影響を食い止めるために、結局、民主主義も人権も一顧だにしない軍司令官アブドゥルファッターハ・エルシーシが後任となった。リビアではカダフィ追放が武装集団の増加とイスラム主義政治の復活をもたらし、経済は崩壊し、長期化する内戦によって国は破綻国家となった。

 バングラデシュ自身も、民衆蜂起が独裁者追放に成功したものの、永続的民主主義の確立には失敗したという残念な実績がある。学生らによる1990年の民主化を求める抗議運動は、皮肉にもハシナを反体制指導者の一人とし、軍事独裁者に文民政権への権力移譲を余儀なくさせた。6年後、そのBNP政権はハシナによって打倒された

 繰り返される民衆の怒りは、排他的統治体制、エリートによる政治支配、常態化している政治的・経済的な力の剥奪、あからさまな泥棒政治、激しい所得格差に対する潜在的なフラストレーションがずっと存在していることを示している。永続的な変化をもたらすためには、これらのより深刻な不満に取り組む必要があると考えられる。

 ハシナ政権は、平均余命就学率など、人間開発指数のほとんどの項目で称賛に値する改善を実現したが、不平等の水準は高いままで、人口の約13%にあたる2200万人がいまなお貧困ラインを下回る生活をしている。定年を超える年齢の人々の3分の2は年金を受給しておらず、失業給付金制度もない。

 バングラデシュには100を超えるソーシャルセーフティネット・プログラムがあるが、それでも、特にこの国が直面する脆弱性を考えるなら、それらはまだ不十分である。気候変動の影響を受ける中心地的存在であるこの国は、2021年の気候変動リスク指数で7位にランクしている。今後25年間で、気候変動によりバングラデシュ人の7人に1人が居住地を追われる可能性がある。極端な気象現象、塩分濃度の上昇、海面上昇による陸地の浸食によって、人々はすでに移住を余儀なくされている。現在、国土の一部が壊滅的な洪水に見舞われており、300万人近い人々が孤立状態にある。

 より切迫した問題は雇用不安である。「アラブの春」が席巻した全ての国々の中でチュニジアだけが、一定の民主的移行を達成した。その理由は恐らく、エンパワーされた労働者階級がすでに存在し、有力な労働組合連合があり、それが真の変化を強制するだけの構造的な影響力を発揮したからである。バングラデシュでは、労働組合の組織化運動は常に非合法化され、暴力的な弾圧さえ受けている。労働者のうち労働組合に加入しているのはわずか5.1%で、搾取的条件で働くことが多い安価で未組織の労働力を背景に、バングラデシュは輸出競争力を維持している。この問題を無視してきたあげく、バイデン政権は2023年11月、バングラデシュの警察が労働者のリーダーを銃撃し、最低賃金法改正を求める組合員を弾圧したことを非難せざるを得なくなった。

 このような基本的不平等の状況を変えることが、バングラデシュに民主主義を再構築するカギとなるだろう。要するに、「バングラの春」が変革を実現するためには、バングラデシュには新たな社会契約が必要である。市民的自由が厳しく抑制された年月が終わり、自由の気風が漂うこの国には、新たな可能性があふれている。どこでも民衆蜂起の後には必ず起こることだが、バングラデシュでも構造改革を求める声が上がっている。学生らは、体制の腐敗を正し、ユヌスが「第2の解放」と呼ぶものを遂行することを誓っている。

 ベンガル語を公用語と認めることを求め、ついにはパキスタンからのバングラデシュ独立へとつながった1950年代の言語運動から、それ以降の軍事および文民独裁政権に対する多くの反乱まで、学生運動は紛れもなくバングラデシュという国を形成してきた。今回学生たちは、一見無敵と思われた独裁政権に立ち向かっただけでなく、ハシナ失脚後の指導者なき国を安定させる道筋も示した。彼らは、社会秩序を落ち着かせ、治安をもたらし、混乱の中で損害を受けた公共の場を清掃し、修理した。

 しかし、広範囲にわたる体系的変化を達成することはまた別の問題である。独裁者の打倒は、それに比べればまだ容易に感じるかもしれない。

デバシシュ・ロイ・チョウドリは、香港に拠点を置くジャーナリスト、研究者、著作家。「To Kill A Democracy: India’s Passage to Despotism」(OUP/Pan Macmillan)の共著者。戸田記念国際平和研究所の「民主主義の危機と課題」研究プログラムの国際ワーキンググループのメンバーである。