Cooperative Security, Arms Control and Disarmament ジョリーン・プレトリウス | 2022年07月04日
戦争と核兵器: 本末転倒の論理
Image: Frank Billings Kellogg who received the Nobel Prize for Peace in 1929 for the Kellogg-Briand Pact of 1928. Everett Collection/Shutterstock
本稿は、2022年6月24日(金)に戸田記念国際平和研究所とウイーン軍縮不拡散センター(VCDNP)が同センターにて開催した研究発表会において、ジョリーン・プレトリウス准教授が行った発表のテキストです。当日は、“The Nuclear Ban Treaty: A Transformational Reframing of the Global Nuclear Order” (Routledge, 2022)の出版記念イベントも開催されました。
私が担当した章では、核兵器禁止条約が持つ力について考察した。章の着想源となったのは、オーナ・ハサウェイとスコット・シャピーロによる2017年の著作『逆転の大戦争史』』である。同書において彼らは、1928年のケロッグ・ブリアン条約、より正式には「国策の手段としての戦争の放棄に関する一般条約」がいかに国際システムを変えたかを示している。この本から私が得た教訓は、禁止とは抽象的道徳の発揮ではなく、権力の問題に関わるということだ。とりわけ重要な点は、人々がいかにして言説の力を集結して国際システムのルールや運用を変更し、それによって侵略戦争が“不可と見なされる”ようになったかである。“不可と見なされる”という表現が意味するところは、侵略戦争が二度と起こらないということではなく、その違法性が個人、組織、国家、国際レベルでのディスインセンティブとなり、戦争が1928年以前のような通常の慣行ではなく逸脱になったということである。また、戦争行使へのディスインセンティブは、紛争の平和的解決へのインセンティブによってさらに強化され、前記全てのレベルで平和のための仕組みが構築されるようになった。
私が担当した章では、このように、行為主体が核兵器の取得、開発、備蓄、使用、使用の脅しといった核兵器活動を“不可と見なす”ようになるために、核兵器禁止条約がいかなる役割を果たしているかを検討している。確かに、核武装国やそのほとんどの同盟国は核兵器禁止に加わっていない。それでも、人道イニシアチブが持つ言説の力に基づいた永続的変化に向けて、禁止条約がさらなる一歩となり得ること、そして、条約に加盟した全ての国において核兵器活動が違法となったことの実際的影響について説明する。禁止条約の力は、締約国の遵守を寄せ集めただけのものではない。国際慣習法としての地位が予期されており、そのため、核兵器禁止条約(TPNW)不参加国も準拠する既存の国際法制度に組み込まれるのである。この条約を中心として、核兵器のない世界の実現に必要な政治的努力がなされている。私が見る限り、このような政治的努力は、国家、個人、組織が核活動に従事することへのディスインセンティブをもたらすと同時に、非核化や核の自制を相互に保証するインセンティブ構造を構築している。
ロシアによるウクライナ侵攻以来、私は、この戦争が核秩序にどのような影響を及ぼすかに関するいくつかの議論に参加し、その都度、本末転倒の論理に私たちは陥っていると訴えている。問題は、核不拡散条約(NPT)の弱点、抜け穴、実行力の欠如、そして無期限延長後の核武装国の思い上がりが、いかにロシアによるウクライナ侵攻や他の侵略戦争(2003年の米国によるイラク侵攻、2006年のイスラエルによるレバノン侵攻、今後起こる戦争など)を許したか、ということであるべきだ。そのためには、国策の手段としての戦争の禁止と核兵器の禁止という、二つの禁止の相互作用を検討することが有益である。
侵略戦争に対する人類の考え方に生じた心理的変化は、1928年にケロッグ・ブリアン条約によって成文化され、1945年に国連憲章に盛り込まれた。しかし、それは、日本への原爆投下の後になされた核による平和という詭弁によって影が薄れ、力を奪われた。バーナード・ブローディが、核の時代において米国の軍事体制の主要な目的は、戦争に勝つことではなく戦争を避けることであると勧告し、それにより、核兵器には戦争抑止による軍事的有用性があるという考え方が生まれ、そこから、核兵器には平和維持と国際的安定性の維持による政治的有用性があるという考え方が生まれた。ハサウェイとシャピーロは、1945年以降戦争が減少した理由を国策としての戦争の違法化であるとしているが、ガディスとウォルトは核の膠着状態が理由だとしている。責任ある少数の国が保有する核兵器は、本質的に平和維持装置として位置づけられるようになった。そのため、TPNWあるいは核廃絶論全般に対する主な反論として、核兵器を禁止したら通常戦争が勃発する可能性が高まるという主張がある。これが詭弁であることは、核武装国による侵略戦争を見れば明らかである。1945年以降、戦争は、核兵器のおかげではなく、核兵器があるにもかかわらず減少したのである。2003年の米国、2006年のイスラエル、そして今日のロシアに対するほぼ全世界からの非難は、慣行としての戦争に対する人類の嫌悪感を証明するものである。
1960年代より非常に苦心して構築された核軍備管理体制と大いなる幸運のおかげで、今のところ地球はアルマゲドンを免れている。しかし、1995年以降、弾道弾迎撃ミサイル制限条約、オープンスカイズ条約、中距離核戦力全廃条約(INF)と、軍備管理体制は体系的に解体されている。核兵器およびその運搬システムは近代化され、より「使える」ものになっている。国連の集団安全保障体制は、一方的行為に取って代わられている。平和の基盤となる相互保証を構築する条約を各国が破棄している状況で、結果的に戦争が起こったからといって何を驚くことがあるだろうか? 核兵器が平和を維持してくれると信じているからだろうか?
ウクライナ戦争は、核兵器がいかに平和と安全保障を阻害するかを示す一つの事例であるが、唯一の例ではない。それは、1994年にウクライナに与えられた安全の保証を無力化しただけではない。核兵器は、両サイドのリスク認知を低減することによって関係国を増長させた。ロシアは、自国の核の脅威によって、ウクライナは侵攻に抵抗せず、NATOは介入しないだろうと計算している。米国は、ますます殺傷力の高い武器をウクライナに供与することによってロシアをウクライナで行き詰らせ、体制転換の瀬戸際に追い込むことが可能だと計算している。なぜなら、NATOの核抑止力がロシアの報復を阻止するからだ。これらの賭けでウクライナ国民が払う代償はどうでもいいということだ。その一方で、米国と中国は、台湾に関して同様の計算をめぐらせている。それは、第三次世界大戦のきっかけとなりかねないものだ。つまり、核兵器は、通常戦争に乗り出すことに対する核兵器国のリスク認知を低減させるため、侵略のインセンティブを提供しており、外交と戦争回避の相互保証による平和構築という骨の折れる努力のインセンティブとはなっていない。
では、何をするべきだろうか? 私が担当した章では、TPNWの慣習法としての地位をNPTが阻害すると主張している。なぜなら、NPTは、核兵器国が核兵器にしがみつく法的足掛かりを与え、しかも1995年から無期限にそれを認めているからである。また、NPTがもたらした体制を核兵器国は巧みに利用し、核による平和という詭弁を弄して核兵器を正当化しようとしている。核兵器国は、NPTに関する話し合いの場で定期的に軍縮を約束しているが、核兵器保有によって得られると彼らが認識する安全保障上の純便益は、NPTに定める軍縮義務への熱意に勝るようだ。
TPNW締約国にとって、NPTの枠の外に出て考えることに価値がある。差し当たっては、第6条がなし崩しにされて、核兵器が再び核兵器国の軍事政策と軍事費の中心になっていることに抗議するため、今年この後に開催されるNPT再検討会議でこれらの国々が退場するよう提言する。長期的には、NPTから集団で脱退することを勧める。これは、抵抗を象徴する行動となり、NPTに代わる核ガバナンスの手段としてTPNWを強力に推進するものとなるだろう。核兵器は非人道的な攻撃兵器であるという心理的変化を体現する手段であり、それ自体が、戦争に反対し、紛争の平和的解決に向かう心理的変化の延長である。
ジョリーン・プレトリウスは、南アフリカのウェスタンケープ大学政治学科准教授として、国際関係学および安全保障研究について教えている。英国のケンブリッジ大学より博士号を取得した。リバプール・ホープ大学デズモンド・ツツ大主教戦争・平和研究センター(Archbishop Desmond Tutu Centre for War and Peace Studies)で研究員を務めた。また、「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」の南アフリカ支部会員である。