Contemporary Peace Research and Practice ナスリーン・アジミ  |  2024年01月02日

あのころの、わたしたち

Image: Protasov AN/shutterstock.com

この記事は、2023年12月26日に広島平和メディアセンターに初出掲載され、許可を得て再掲載したものです。

 イランの有名なユダヤ人学校「エテファ」の洗練されたアールデコ建築は、今もなお、テヘラン大学に面した緑豊かな通りに建っている。エテファは元々、1940年代から50年代初めのイラクで起こったユダヤ人に対するポグロムと排除を逃れてイランに定住した著名なイラク人によって設立された。当初は宗教的・文化的センターとして発足したが、1960年代までには敬意を集める教育機関となり、イラン最初の男女共学校の一つとなった。1970年代には、物理学者、教育者、皆が知る知識人であるバルーフ・ベルヒム博士の指導のもと、エテファはイランの国立大学の入試で常にトップを守った。

 ハイスクール時代の私は、家族とともにトルコに引っ越した最後の年を除き、1970から1975年までをエテファで過ごした。当時2,000人ほどいた全校生徒のうち約20%はユダヤ教徒ではなく、イスラム教、ゾロアスター教、キリスト教、バハイ信教、その他の宗教の信者だった。私と兄弟はこの少数派に入っていたが、ユダヤ人クラスメートと私たちの違いはヘブライ語の授業を免除されていることだけだった。敬愛される校長先生だったベルヒム博士のことは、今でもはっきりと覚えている。フランスで物理学の博士号を取り、担当する教科に飽くなき情熱を注いだ先生は、校内の大理石の中央階段を騒がしく駆け回る少年たちをつかまえて、それより「物理の勉強をしなさい!」と命じたものだ。

 敬虔なムスリム家庭の出身ではあったが、私はユダヤ人クラスメートと一緒にシナゴーグに行くのも好きだった。多文化的な生育環境は、学校だけに限らなかった。両親は常に、イランのあらゆる宗教的少数派の立場を尊重し、家庭でも積極的に多様性を奨励していた。いずれにせよ、そのころは誰も祈ることを強制されず、誰も祈ることを禁止されず、宗教よりも学問や社会的スキルのほうが重要で、教育は全ての人から敬われた。後になって考えると、エテファは当時のイラン社会の縮図だった。あの1970年代の初期は、近代イランそのものの黄金時代と一致する。国家が果てしない未来の可能性を信じ、近代性と繁栄を目指して着実に進み、まだそこまで至っていなくても間違いなくその途上にある、平穏な日々であった。

 ハイスクール時代、私はホロコーストについて自分で学び始め、レオン・ユリスの「エクソダス - 栄光への脱出」や「ミーラ街18番地」のような本を読みふけった。ティーンエイジのこの頃、ナチスの強制収容所の悪夢に悩まされたことを今でも覚えている。また、現イスラエル首相の兄で、1976年にハイジャックされたフランス行きのエールフランス旅客機から乗客を救出するためにウガンダのエンテベ空港で救出作戦を指揮したヨナタン・ネタニヤフの死亡を聞いた時、自分が泣いたことも覚えている。当時イラン人は、イスラエルと同国が成し遂げたこと、特にネゲブ砂漠の緑化を称賛の目で見ていた。広大な内陸砂漠を抱える乾燥地のイランにとっては、お手本である。

 世俗国家で、「中東における日本」と有望視されたイランの将来像は、1979年のイスラム革命によって崩れ去った。イスラエルとの関係も、ほとんど即座に悪化した。しかし、革命後も、イランの一般人がイスラエルに抱く憧れは根強く残った。イランの新たな主人となったムッラー(イスラム法学者)たちが政治犯を大量処刑し、髪を適切に覆わなかったことを理由に女性たちに非道な仕打ちをし、テロリストグループを支援するのに忙しくしている間に、イスラエルは豊かな経済と多様な社会を築き、自らを科学技術の中心地であり、中東で唯一の民主主義国であると高らかに謳っていた。周囲のアラブ世界の敵意をものともせずに。

 その一方、ユダヤ人クラスメートのほとんどは、あらゆる信仰や背景を持つ大勢のイラン人と同様、イランの神権政治の蛮行から逃げ出して、主にイスラエル、ニューヨーク、あるいは南カリフォルニアに移り住み、一部はカナダやヨーロッパに散らばった。行き先はバラバラになっても、私たちは連絡を取り続けた。私は国連に就職し、さまざまな国で働きキャリアを積んできた。やがて私は、西岸地区やガザ地区で働く同僚たちの目撃証言によって、パレスチナ人の窮状を知るようになった。ニューヨークの国連本部に勤務していたとき、学者エドワード・サイードの講演を聞いて、パレスチナ人の悲劇をはっきりと理解した。ホロコーストを犯したヨーロッパ人の罪の代償として、自分たちの土地を追われたのである。ガザ地区生まれの人権弁護士ラジ・スラーニやイスラエル生まれのジャーナリストで作家のアミラ・ハスのような勇気ある人々から、パレスチナ人が日々どのような屈辱に耐えているかを教わったことで、目が開かれるとともに胸が張り裂ける思いをした。

 イスラエルの先人たち、イツハク・ラビンやシモン・ペレスと並ぶような偉人たちは、国を守るために全身全霊を捧げた一方で、非常に人間的でもあった。彼らは懸命に戦ったが、決して平和を嫌ったわけではない。特に彼らは、パレスチナの悲劇を軽視していなかった。シモン・ペレスや博学の元イスラエル外相アバ・エバンが国連でイスラエルの生存権を主張した演説を、誰が忘れることができようか。しかし、ここ数年にイスラエルで起こった政治的・社会的変化、最近ではベンヤミン・ネタニヤフの傲慢な統治、パレスチナ人の命に対する明らかな軽視、あからさまに過激な入植者を取り込んだ連合与党、結局は破滅をもたらす冷笑的な態度を考えると、イスラエルの政策を支持し続けることはますます難しくなっている。私たちは、かつてのクラスメートたちとパレスチナについて論じることを避けるようになった。

 2023年10月7日、ハマスが1,200人のイスラエル人を殺害し、数百人を連れ去った恐ろしい襲撃にショックを受けた後、私たち家族が真っ先にしたことは、ユダヤ系イラン人の仲間たちに連絡を取ることだった。彼らの多くはイスラエルに親族がいることを知っていたからだ。しかし、悪夢を体験したイスラエルに全世界から連帯が寄せられる間もなく、もう一つの悪夢が始まった。ガザ地区の学校、病院、モスク、難民キャンプにいるパレスチナ人に対し、毎日のように爆撃が行われるという悪夢である。何千人という子どもが死亡し、狭い土地ですでに極めて過酷で屈辱的な生活を送っていた何十万人というパレスチナ人が、再び移転を余儀なくされている。これらの家族がどこに行くことができるというのか、何度彼らは土地を追われるのか、そして、愛する人がイスラエルの爆撃によって死傷するのを目の当たりにする彼らの悲しみと怒りが、今後この地域にどのような新たな暴力のサイクルをもたらすのか?

 問題は複雑で終わりがない。しかし、少なくともエテファで過ごしたハイスクール時代が私に教えてくれたことは、イスラエルとガザ地区で起こっている悲劇が宗教によるものというより、恐怖、尊厳の喪失、強欲、特に嘆かわしく権力欲にまみれた政治指導者、そして彼らの人権無視によるところがはるかに大きいということだ。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教がこのような悲劇を引き起こすのではなく、自分の目的のためにこれらを利用する指導者たちが引き起こすのだ。数週間前のように、シリアのアサド大統領やイランのライースィ大統領のような暴君たちが、国民や女性の最も基本的な人権を日常的に踏みにじっているにもかかわらず、イスラム協力機構の演壇に座ってパレスチナ人の人権について語るとき、彼らはイスラムの代表ではなく汚点となっている。同様に、暴力的なイスラエル人入植者やネタニヤフ政権の過激主義者らも、ユダヤ教への侮辱であり、断じてその代表ではない。私がそう知っているのは、これら二つの宗教のはるかに親切で、賢明で、包摂的なあり方に触れて育ち、経験してきたからである。

 世界人権宣言75周年を迎えた今こそ、私たちの土地、世界の文化的・地理的中核をなし、アジア、アフリカ、ヨーロッパが出会う場所である土地の多文化的伝統を取り戻すべきだ。地中海東岸からパキスタンとアフガニスタンまで、中央アジアとイラン高原からペルシャ湾、アラビア半島、北アフリカまで、宗教の名のもとに、私たちの国は紛争や暴力からあまりにも長い間抜け出せずにいる。私たちは、ありとあらゆる形態の排除と憎悪を実験してきた。しかし、数千年に及ぶ私たちの集合的な歴史について幾度も慎重に吟味するなら、私たちが多様性に寛容で、「他者」に対して包摂的であった時はいつでも、よりうまくやれていたことが分かるだろう。

 ペルシャ系ユダヤ人は世界に35万人しかいないが、世界で最も古いユダヤ人コミュニティーの一つで、最近の学術的知見によれば、これまで考えられていたアケメネス朝帝国時代よりもさらに早く、もしかしたら紀元前8世紀にもイランに到来していたと考えられる。イスラム教が到来するおよそ1,300年前である!ユダヤ的特徴とペルシャ的特徴が重なり合うことによって、両者を足しただけよりも生き生きとした文化が生まれた。学ぶことへの深い敬意、素晴らしいユーモア感覚、温かさ、レジリエンス、繊細さ、そして人生への愛を備えた人々である。多様性と包摂性は、全てのコミュニティー、全ての国をより豊かにする。私たちに与えられたそのような宝物を、どうして自ら奪い続けるのだろうか?

 数週間前に広島の原爆ドームのそばを通ったとき、イスラエル/ガザ地区の停戦を求めるキャンドル集会が行われていた。若いカップル(彼女はユダヤ人、彼はムスリム)がヘブライ語とアラビア語で祈りの言葉を唱え、手をつなぎ、人目もはばからずに泣いていた。私たちの地域の「指導者」がこの若者たちにもたらした痛みの深さを目の当たりにし、私は怒りと恥ずかしさでいっぱいになった。私たちは、無慈悲な独裁者にうんざりしている。彼らの蒙昧主義と狭量さにうんざりしている。かくも多くの苦しみを引き起こすために宗教が利用され、乱用されるのを見ることにうんざりしている。何十年も前にエテファが教えてくれたように、誰もがただ、真の敬意や尊厳、公正で公平な機会を望んでいるだけなのだ。それが全てである。それさえあれば、何とかなる。これほど単純明快な真実の知恵すら理解することができないなら、何千年にも及ぶ文化や歴史は一体何の役に立つというのだろうか?

ナスリーン・アジミは、キャリアの大部分を国連訓練調査研究所(UNITAR)で過ごし、三つの大陸にまたがって多くのイニシアチブ、プログラム、事務所を指揮してきた。現在は、2011年に共同設立したグローバルキャンペーン「グリーン・レガシー・ヒロシマ(GLH)・イニシアティブ」(http://glh.unitar.org)の運営に携わっている。GLHは、1945年の広島への原爆投下を生き延びた被爆樹木の種や苗木を世界中で播き、植える活動を行っている。同志社女子大学特任教授、広島修道大学客員教授を務めるほか、サンディエゴ植物園の研究員として紛争影響国や後開発途上国に植物園を設立する取り組みに加わっている。また、日本のEDEN Seminars(Emerging and Developing Economies Network)の議長を務めている。