Contemporary Peace Research and Practice チャイワット・サーシャ=アナンド | 2022年07月01日
荒波に架ける橋(Bridging Troubled Waters): 分断社会に結束をもたらす
Image: Damian Pankowiec/Shutterstock
この記事は、2022年6月22日に、シンガポールの南洋理工大学S・ラジャラトナム国際研究大学院(RSIS)の刊行物「RSIS Commentary」に初出掲載され、許可を得て再掲載したものです。
社会的緊張と紛争の時代に、結束を促す架け橋を築くことが極めて重要になっている。名曲『明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)』が教えてくれるように、われわれが築いている橋の下に荒波があることを忘れてはならない。
2019年6月にシンガポールで開催された第1回「結束ある社会に関する国際会議(International Conference on Cohesive Societies: ICCS)」において、シンガポールのハリマ・ヤコブ大統領は、アイデンティタリアン的傾向を強める分断の間に壁ではなく橋を架けるよう、国々や社会に呼びかけた。同じイベントで、アラブ首長国連邦の「暴力的過激主義対策に関するヘダヤ国際研究センター(Hedayah International Centre of Excellence for Countering Violent Extremism)のアリ・アルヌアイミ博士は、われわれが「戦争ではなく橋を築く時代」にいると指摘することによって、大統領のメッセージを改めて強調した。
社会的分断が深刻化する状況で橋を架けるには、その下の荒れた水を理解することが重要である。今日、橋を架ける人々が社会的結束を促進しようとする際に立ちはだかる“荒波”の種類を明らかにするために、手引きとなる三つの問いがある。(1) どこに亀裂が見られるか、(2)現代社会においてそれらの亀裂は現在どれほど深いか、そして、(3)それらの亀裂に対処するのがなぜそれほど難しいのかである。
「どこに亀裂が見られるか」という第1の問いを通して分断社会と折り合いをつけようとするとき、ロバート・ベラーが半世紀前に書いたことを心にとどめるのが賢明である。結束ある社会では、集合体の中で制度化された聖なるものに関する信念、象徴、儀式の集積の力によって人々が結び付いていたと、ベラーは主張した。
このような信念、象徴、儀式は、国家に定義を与える。それは、宗教が信者や追随者に対して及ぼす力とは異なり、それゆえ「市民宗教」という言葉で表される。警察、裁判所、メディアといった制度に信頼を置くことができる結束ある集合体に、多様な人々をとどめ置くことができるのが、市民宗教の力である。
米国やタイのような高度に二極化した社会において近頃起きていることから判断すると、米国では選挙プロセスへの信頼が損なわれており、タイでは、昔なら考えられないことだが、王制改革に関する論議が伝統的な社会構造をずたずたに引き裂いているようだ。
二極化はまた、バングラデシュ、ブラジル、インド、ケニア、ポーランドをはじめ世界中で、民主主義的な制度や慣行の縫い目も切り裂いている。恐らく、かつてこれらの社会を結束させた「市民宗教」が、一部のケースではすでに崩壊したとは言わないまでも、いまや裂け目が入りつつあるのだろう。
かくも長きにわたって社会をまとめてきた市民宗教を脅かすその裂け目は、どれほど深いのだろうか? 筆者が思うに、リベラル派(人々であれ社会であれ)が大いに共鳴する権利や自由という「普遍的」言語に対して、普通の人々が日常の徳について用いる道徳的言語が対立するとき、市民宗教の結束力は厳しい試練にさらされてきた。
マイケル・イグナティエフは著書“The Ordinary Virtues”の中で、対立するアイディアや要請に対処できるよう人々を導く「道徳的オペレーティングシステム」の役割を果たすのは、このような普通の徳、なかでも信頼と寛容であると主張する。
普通の徳にとって、鍵となる道徳的区別は自己/他者、市民/よそ者である。よそ者を「他者」とするなら、人種、宗教、ジェンダー、国籍は、自己/市民であることの第一義であり、共通の人間性は第二義となる。
例えば、社会的結合に不可欠と考えられている寛容という問題を考えてみよう。普通の徳において、寛容は義務ではなく、市民からの贈り物であり、誰がその贈り物を得るかは、主権者としての国家が決める。市民は、よそ者が彼らの「道徳的オペレーティングシステム」を受け入れることを条件として、よそ者に寛容という贈り物を与えるのである。よそ者がそれを自分の権利と言い張るなら、寛容は与えられない。
イグナティエフはさらに、異なる集団が同じ社会の中に生きることはできるが、彼らは共生するのではなく分離して存在しているという所見を述べている。普通の徳は、われわれを団結させる場合もあれば、分離させる場合もある。
一方では、普通の徳は、癒し、和解、連帯の鍵である。
他方では、自らの集団が他の集団より特権を持っている場合、普通の徳は、「恐怖と排除の政治」のために悪用されやすくなる。この「恐怖と排除の政治」が勢いを増した現在、恐らくこのようにして既存の政治論が普通の徳に力を与えたり奪ったりするのだろう。それがもっか、橋の下の水を極めて危険にしているのである。
「恐怖と排除の政治」が勢いを増した状況で、社会的結束を促進するために橋を架けることがますます難しくなったのは、なぜだろうか? 多くの人が、オンライン・コミュニケーション、その特性、スピードを主要な問題と認識している。
自分たちの「真実の」説明によって、「フェイクニュース」との「戦い」に身を投じる人もいる。しかし、恐らく彼らは、「真実」という概念自体がますます問題をはらんでいることに気付いていない。
筆者の考えでは、最も良い答えの一つを『MITテクノロジー・レビュー』に掲載されたゼイナップ・トゥフェックチーの記事に見ることができる。彼女は、デジタル技術の破壊的傾向を理解するために、技術そのものではなくそれを取り巻くエコシステムを見なければならないと提案する。
「ソーシャルメディアの時代にソーシャルメディアで反対意見に出会うということは、ひとりで座っているときに新聞でそれらを読むのとは違い、……サッカースタジアムで仲間のファンと一緒に座っているときに敵のチームからそれらが聞こえてくるようなものだ」と、トゥフェックチーは説明する。
アイデンティティ意識の対立がきわめて激しいエコシステムでは、「所属することのほうが事実より力を持つ」。事実がほとんど無意味なことへと格下げされるそのようなエコシステムにおいては、アイデンティタリアン的な相違を乗り越えようとする結束ある社会にとって、硬直化した所属意識が深刻な脅威となる。
分断社会において社会的結束を目指す努力は、現在非常に重要になっていることから、結束を脅かす亀裂の位置と深さ、そして、健全な結束ある社会の実現に向けた努力を難しくしている条件を理解しようとすることが、緊急に必要とされている。
橋の下の荒波を構成する基本条件(市民宗教、普通の徳、エコシステム)を批判的に認識し、そのうえでこれらの現実に立ち向かうことによってのみ、橋を架ける試みが現実的なものとなり、意味のある社会的結合が可能となるのである。
チャイワット・サーシャ=アナンドは、バンコクのタマサート大学政治学教授ならびにタイ平和情報センターの創設者および所長である。著書に“Nonviolence and Islamic Imperatives” (2017)、論文に“The Governor, The Cow Head, and the Thrashing Pillows: Negotiated ‘Restrictive Islam’ in Twenty-First Century Southeast Asia” (Religions, 2022)がある。本稿は、「結束ある社会に関する国際会議2022」に向けたシリーズの一環である。