Climate Change and Conflict キャロル・ファルボトコ/ジョン・キャンベル | 2023年02月10日
環礁の未来―居住可能性を定義する
Image: Kiribati - Maloff/Shutterstock
海面上昇に伴い環礁が居住に適さなくなるリスクはよく知られた問題であるが、環礁に住む人々の集団移住は避けられないと単純化され、存亡の危機として語られることが多い。
しかし、特に将来の居住不可能性についての科学的根拠が決定的でないため、倫理的な理由から、地域または国家全体が気候変動のために居住不能となるかもしれないという主張は軽々しくするべきではない。実際のところ、環礁地域における気候変動リスクは複雑で、空間的にも時間的にも分散しており、その他の環境や社会的要因も関わるものである。水没などの災害によって、いきなり居住不能が現実のものになるとは考えにくい。
さらに、40年にわたり環礁の存亡の危機が訴えられてきたが、どの環礁でも、居住可能性に問題が生じることを予測して、あるいはそのような状態に反応して、大量の集団移住が起こるということはなかった。
重要なことは、気候変動に関する主要な議論ではめったに語られないのだが、環礁の各国政府も市民たちも、住民がそこに留まることについて強い意志と願望を持っているということである。従って、地域の住民でない人間による居住不可能性の見解、すなわち、ドキュメンタリー作家、ジャーナリスト、開発専門家といった外部の人間によって作られた見解が、居住不可能性という想像上のディストピアから環礁の住民たちを守るために移住が避けられない、または差し迫った必要性がある、という見せかけの真実を形成していることが問題なのである。
環礁に対する存亡の危機という言説は根強く、世論あるいは常識的な考えに訴える力があり、その言説通りの効果を生み出すこともできるため、環礁の住民にとって危険なことである。居住不可能性についてのディストピア的な物語は、何度も繰り返されることで真実としての価値を纏ってきたが、それは現場での適応を最優先している環礁の足元の現実とはかけ離れている。
しかし逆に、ディストピア的な物語が現実を形成し始めている。居住不可能性が避けられないという考えが、現実に影響を与え始めており、環礁地域の開発と現場での適応策に対する投資の減少といったことが起こっている。
これらのマイナスの影響を考慮すると、居住不可能性という概念は、適応と移動の政策、理論およびプロジェクトに向けて方向性を変える必要がある。それはまず、居住不可能性の概念を、それが可能になる政治的取り組みに向けて、認識し紐解くということを意味する。
第1に、 「居住可能性」という概念は、都合がいいことに、複数の解釈が可能だということを十分に認識する必要がある。居住可能性そのものが、環礁地域が消滅する運命にあるという常識的な見方の中に隠されていることが多く、科学的に決定される物質的な基準で定義可能なものとして理解されている。しかし、ある場所が居住不可能となる客観的に知り得る時点というものが必ずしもあるわけではない。しかも、居住不可能性は、単に物質的な条件が悪化した結果ではない。むしろ、居住不可能性は、非常に文脈的な多様な文化的、社会的、さらには環境および物理的な条件のプロセスとして展開される。居住可能性、とりわけ自給自足社会にとっての居住可能性は、人々の知識、信条体系および価値観に依存していることが多い。人々は、単に資源が豊富であったり、生活の手段が得られたりする場所に住むのではなく、そこに住む人々の固有の歴史と文化の中で意味をなす場所に住むのである。
第2に、居住可能性を状況や文脈に基づく現象として捉えるならば、誰が居住不可能性を定義することができ、また定義するべきなのかということが問われなければならない。ある場所を居住可能とする特性は、地域の人々の知識、宇宙観および土地への愛着が関わる、文化的および歴史的に固有のものである。そのため、居住可能性は、住居、食料、水など人間の安全にかかわる物質的な要素(これらも重要であるが)に還元することができないことが明らかになる。西洋科学は、環礁に対する気候変動の物質的な影響を明らかにするには有用であるが、環礁の住民たちにとっての居住性がどういう意味を持ち、どのように経験されているかを理解するには限界がある。そのため、環礁の住民たちは、彼ら自身の居住可能性に関する専門家として真の意味で尊重されなければならない。
第3に、外部の人間が、環礁地域の諸文化の価値観や知識に細心の注意を払うことなく、環礁が間もなく居住不可能となるという言説を繰り返し続けることによって、影響を受ける人々が彼ら自身の知識体系と意向に基づいて環礁の居住可能性および居住不可能性を選択し、主張するという重要な権利が否定されている恐れがある。現在、居住可能性および居住不可能性を定義するプロセスは、おおむね、専門家の技術的な営みとして捉えられており、そのため、外部の専門家や彼らに資金を提供する人々の世界観や組織的利益にかなう解決法を推進する方向で権力が行使される余地が大きくなっている。それでも、これは、自己決定、政治的主体性、信仰、土地に対する先祖代々の絆、そして文化的アイデンティティーといった、議論すべき複雑な課題を、影響を受ける人々自身が、彼らの統治システムの中で、新たな方法で取り決めることができるし、そうするべき領域である。
まとめると、居住可能性の概念は、文化的かつ社会的に経験されるものであって、複数の真実についての主張が可能である。それらは、今後の理論、政策およびプロジェクトにおいて様々に理解し実践される必要がある。居住不可能性および居住可能性が、概念化と意味付けにおいて限定されない可能性を有するならば、居住可能から居住不可能までの間の計画では、きちんと、あるいは客観的に知り得ない複数のあり得る結果を考えなければならないし、その一つとして、居住可能性の継続も常に含めておかなければならない。居住可能性や居住不可能性という概念は相対的、状況に依存する概念である。そのため、環礁や気候変動の重大な影響のリスクに晒されているその他の場所における居住可能性は、誰が定義することができ、また定義すべきなのか、ということについて問われなければならない。居住不可能性の定義を誰が決定するのか認識することは、環礁の住民たちにとって、そこに留まるか、自発的に移動するか、強制的に移動を経験させられるのかといった結果に違いをもたらす可能性がある。環礁の住民たちは、居住可能と居住不可能の両方を可能性として捉えた様々なシナリオの中で、自らの将来を想像する際の中心にいるべきである。環礁の住民たちには、そこに留まる理由について声を上げる権利がある。また、もし居住不能が現実となった場合には、環礁の住民たちには移動する権利があるし、どこに移動するかを決めるために重要な情報を得る権利もある。
国際社会には、環礁の住民たちの自らの未来を想像する主体性と権限が、国際的な政策および研究において本当に考慮されているかどうかを検討する責任がある。居住可能性および居住不可能性は、本来、状況に依存する概念であり、影響を受ける人々が、政策立案のためにそれらを定義する際に、確実で、中心的かつ有効な役割を担えて初めて気候正義に寄与することができる概念であるということが、広く認識されなければならない。気候変動に晒されている環礁の住民たちには、気候変動のリスクに対処しようとする科学、法律、政策および計画の中心となる、居住可能性に関する経験や知識、そして居住不能になる限界を認識する権利が与えられなければならない。
キャロル・ファルボトコは、オーストラリア連邦科学産業研究機構(CSIRO)の科学研究員およびタスマニア大学のユニバーシティ・アソシエートである。
ジョン・R・キャンベルは、1970年代より太平洋諸島における人間と環境の関係について研究活動を続けている。近年は、環境変化による移住を含む災害リスクの軽減や気候変動への適応などの人間的側面について研究している。